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群馬県安中市

補陀寺

2014年11月23日

美濃国の大泉山補陀寺の住職無極慧徹は師の最乗寺(神奈川県南足柄市)住職了庵慧明に会うため、寺を弟子の月江正文に譲り、最乗寺を目指す途中、松井田で熱心な信者に出会い、ここに止まり草庵を開くことになった。その後、補陀寺が兵火により焼失したため、月江とその弟子たちは松井田へ移り、寺号を移して大泉山補陀寺と名付けた。天文元(1532)年に焼失したが、松井田城主諏訪越前守や大道寺駿河守政繁により再建された。しかし天正18(1590)年に小田原攻めの兵火にあって焼失し、現在の地に移った。武田家・北条家などの4点の中世文書を所蔵している。
(西上州の中世より)

本堂

上州大泉山補陀寺続伝記
補陀寺22世廓盤徹によって書かれた補陀寺歴代住職の伝記。補陀寺10世泰州全到の徳声は武田信玄や北条氏直に及び、武田家から元亀3(1572)年2月4日に土貢不易の朱印を与えられている。11世的翁は信玄に参じて法要を執り行い、勝頼の菩提を弔うため内藤昌月が建立した善龍寺の開祖となっている。
また大道寺政繁が補陀寺の大檀那となり、天正11年3月7日には氏直より信玄の先規に準じて寺領不易の印書を与えられている。12世荊室廣琳の時に豊臣秀吉の北条攻めがあり、7月19日に前田利家らにより松井田城は落城し(実際には4月19日総攻撃、20日落城)、城内・城外には人馬の血が混ざって生臭いにおいが立ち込め、民家は半壊し、道は途絶えてしまったとある。翌年の秋に補陀寺を現在の新堀へ遷し、政繁のために塔院を建てた。
(西上州の中世より)

大道寺政繁の墓

大道寺政繁の墓石に彫られた文字

大道寺政繁の戒名が彫られた石塔

大道寺政繁の家臣:小板橋下総守の墓

 
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