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愛知県新城市

五味与左衛貞氏の墓(傳五味與惣兵衛貞氏之墓)

2014年08月16日

かるたでつづる設楽原古戦場によれば、五味貞氏は越前の浪人で、長篠・設楽原合戦の際は武田方の浪人組の将として鳶ヶ巣方面の5つの陣地のひとつである中山砦に名和無理之助らとともに布陣した。しかし5月21日早朝に酒井忠次らの奇襲攻撃に遭い討死したとのことである。
従って五味貞氏の墓がここにあるのは不自然であり、実は五味貞氏は中山砦から逃れて武田勝頼の本陣に来てから討死したとの説もあるとのこと。
また、別の資料では「武田臣五味与三兵衛貞氏墓 柳田村 鳶巣山に於て討死、首此処に埋む・塩瀬久兵衛の物語也」とあり、塩瀬の手によってこの丘に運ばれたのではないかとのことである。


「律義にも塩瀬が残す五味の塚」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

武田勝頼観戦地から東郷東小学校を左に曲がって丸山砦に向かう途中の鬱蒼とした山林を通り越えたすぐのところの左側に上り口があります。少し高い丘の上にあり足場は悪いですが丘の上には看板もあるので登れば場所は分かると思います。

 



2006年05月05日

かるたでつづる設楽原古戦場によれば、五味貞氏は越前の浪人で、長篠・設楽原合戦の際は武田方の浪人組の将として鳶ヶ巣方面の5つの陣地のひとつである中山砦に名和無理之助らとともに布陣した。しかし5月21日早朝に酒井忠次らの奇襲攻撃に遭い討死したとのことである。
従って五味貞氏の墓がここにあるのは不自然であり、実は五味貞氏は中山砦から逃れて武田勝頼の本陣に来てから討死したとの説もあるとのこと。
また、別の資料では「武田臣五味与三兵衛貞氏墓 柳田村 鳶巣山に於て討死、首此処に埋む・塩瀬久兵衛の物語也」とあり、塩瀬の手によってこの丘に運ばれたのではないかとのことである。

五味与左衛貞氏の墓は、丸山よりひとまわり大きな規模の丘の上にありました。下からも看板が見やすいように道の方に向って看板が建てられていましたが、木で覆われてしまっており見えにくくなっています。しかし登り口のところに木の案内板があるので分かると思います。



2003年10月12日


「律義にも塩瀬が残す五味の塚」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

武田勝頼観戦地から東郷東小学校を左に曲がって丸山砦に向かう途中の鬱蒼とした山林を通り越えたすぐのところの左側に上り口があります。少し高い丘の上にあり足場は悪いですが丘の上には看板もあるので登れば場所は分かると思います。

 

 
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