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長野県小諸市

楽厳寺城

2015年05月03日

土塁

文明年間から天文年間にかけて甲斐の武田氏が佐久に侵入し、地侍やこれを支援する村上氏と相争うに及んで脚光を浴びた城である。
天文9年頃から武田氏の佐久侵入は激しさを加え、佐久の諸城は相次いで攻略されるが、この城は村上義清の強力な支援を得て離叛を繰り返した。佐久が完全に武田晴信の手に入るのは同17年頃であろうか。同年には上田原合戦と戦場は小県に移った。佐久郡の西北部にある楽厳寺城は同17年まで村上氏のもとにあったのであろう。
城主楽厳寺雅方は落城後、隣の堀ノ内城主布下仁兵衛雅朝らと共に村上義清に従って砥石城にあったという。同22年、武田晴信が塩田城に村上義清を破ったのち、楽厳寺城雅方らも武田氏に従い、永禄10(1567)年8月に連名で武田氏に異心なきことを誓った起請文を生島足島神社にささげている。
楽厳寺雅方については、長野県町村誌には、「天文中布引山釈尊寺の末寺楽厳寺の住僧武勇に長じ、望月遠江守信雅の幕下となり、楽厳寺雅方と称し、該城を築いて居城す」とある。
(日本城郭大系より)

堀切

池と土塁

池と土塁

堀切

 



2009年05月05日

文明年間から天文年間にかけて甲斐の武田氏が佐久に侵入し、地侍やこれを支援する村上氏と相争うに及んで脚光を浴びた城である。
天文9年頃から武田氏の佐久侵入は激しさを加え、佐久の諸城は相次いで攻略されるが、この城は村上義清の強力な支援を得て離叛を繰り返した。佐久が完全に武田晴信の手に入るのは同17年頃であろうか。同年には上田原合戦と戦場は小県に移った。佐久郡の西北部にある楽厳寺城は同17年まで村上氏のもとにあったのであろう。
城主楽厳寺雅方は落城後、隣の堀ノ内城主布下仁兵衛雅朝らと共に村上義清に従って砥石城にあったという。同22年、武田晴信が塩田城に村上義清を破ったのち、楽厳寺城雅方らも武田氏に従い、永禄10(1567)年8月に連名で武田氏に異心なきことを誓った起請文を生島足島神社にささげている。
楽厳寺雅方については、長野県町村誌には、「天文中布引山釈尊寺の末寺楽厳寺の住僧武勇に長じ、望月遠江守信雅の幕下となり、楽厳寺雅方と称し、該城を築いて居城す」とある。
(日本城郭大系より)

日本城郭大系によれば楽厳寺城は釈尊寺の西南約300mの山頂にあり、北は比高200m以上の布引の大断崖、東は果成寺沢、西側は不通(とおらず)の深谷となっているとのことでしたのでまずは釈尊寺に行ってみることにしました。釈尊寺は下から登ったこともありますが2回目に来た時に南側の林道から行かれることを確認済みだったので南側に行ってみました。林道布引線というのがあって標識もあるのですぐに分かりました。後半は極めて急な坂道を下って駐車場に到着。膝が痛かったのですがなんとかたどり着くことができました。
朝7時前でしたがお守などが売っているところが既に明るくなっていたのでブザーを鳴らしてみました。するとご婦人が対応してくれました。楽厳寺城に行きたい旨伝えると、既に分からなくなってしまっているとのことでした。

しかたなく先ほどの林道を更に奥まで進んで行くと土塁らしきものが見えるようになってきました。その後周辺を歩いてみましたが掘切らしきものや池などがありました。近くには別荘地らしき場所がありました。後で分かったことですが薫風山荘とのことで私が持参した長野県広域道路地図にも載っていました。別荘地の方に進んで行くと住宅がありご婦人がいたので話を聞かせてもらいました。それによるとやはり先ほどの別荘地付近が楽厳寺城跡ではないかとのことでした。

 

 
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