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愛知県設楽町

田峯

2014年03月23日

田峯城は県下有数の高山である段戸連峰を間近に控え、寒狭川の渓流をはるかに見下ろす標高387mの独立丘陵にある山城です。本丸から見下ろした寒狭川の蛇行と城をいただく山並みが、まさに大蛇のようであることから田峯城は別称「蛇頭城(じゃずがじょう)」「竜の城」とも呼ばれていました。田峯城は文明2(1470)年菅沼定信によって築かれ、定信→定忠→定広→定継→定忠と、代々田峯宗家菅沼氏の居城とされました。
当時は下克上の時代、今川氏をはじめ武田氏、織田氏、徳川氏などの強大な戦国大名が台頭するなか、この奥三河では作手の奥平氏、長篠の菅沼氏、そして田峯の菅沼氏が「山家三方衆」として結束していました。しかしその団結も時に拠っては崩れ、姻戚関係でありながらも骨肉相食む戦いを繰り広げることになります。五代目城主定忠は武田方に従い、家老城所道寿とともに長篠合戦に出陣しますが、武田方大敗の報を受けた留守居の将・叔父定直と家老今泉道善らの謀叛にあい、田峯城に入城できずに武田勝頼とともに信州に敗走することを余儀なくされます。復讐を誓った定忠は翌天正4(1576)年7月14日田峯城に夜襲をかけ、謀叛の一族老若男女96名を惨殺、首謀格の今泉道善を鋸引きの刑に処しました。定忠は天正10(1582)年飯田知久平にて討たれ、その後田峯宗家菅沼氏は断絶しました。
(看板資料より)


空掘・橋

空掘には木橋が架けられ、事ある時にはここで敵の侵入を防いで戦闘体制をとったと考えられています。
(看板資料より)


表曲輪

田峯城の入口近く(表側)にあることから表曲輪と称されています。
(看板資料より)


無名曲輪

言い伝えなどに名前の出てこない曲輪のため、このように称されるようになりました。
(看板資料より)


井戸曲輪

井戸跡もなく、掘っても水の出る地形ではないため、天水を貯える設備があったと考えられます。
(看板資料より)


蔵屋敷

蔵があった場所で、当時この蔵には、食物や武器などが保管されていたと考えられます。
(看板資料より)


畷曲輪

狭い面積の曲輪であることから、その意を示す畷の字が使われていたと考えられます。
(看板資料より)


田峯城本丸

中世戦国時代の山城、田峯城は、当時の武家屋敷をしのばせる書院造りという様式を用いて復元しました。書院造りとは、それまでの公家文化でいう寝殿造りが変化して確立した建築様式です。中世の一時期には寝殿造りにおける「寝殿」の略化したものを「主殿」と呼ぶ建築が、公家、武家の間で一般化していました。田峯城の「御殿」は、この「主殿」を参考にしています。
「御殿」は梁間6間、桁行8間の大きさで、南に中門が、北には色代が張り出しています。屋根は板葺き、入母屋造り、中門と色代は切妻です。車寄に柿葺の唐破風をつけています。車寄は両折れの妻戸とし、その北の柱間には蔀戸を、車寄の南は中門で連子窓と妻戸が、中門の落縁には脇障子があります。南側は吹き放しの広縁になっています。内部は南側に18畳の2の間、6畳の公卿の間が北側に12畳の鑓の間、4畳の畳廊下が続いています。上段の間には床と違棚が並び、その南側に2畳の上々段が広縁に張り出しています。上々段には床と付書院があります。
本丸には「御殿」のほか、家臣の住居と馬屋を兼ねた「厩」、見張りのための「物見台」、「本丸大手門」、「搦手門」を当時の建築方法により復元しました。
(看板資料より)


本丸大手門

本丸大手門とは、田峯城の中心となる本丸への正式な表門です。板葺の棟門で、質実剛健な戦国時代の武家屋敷をしのばせる門構えです。
(看板資料より)


物見台

物見台とは敵の襲来等に備えた見張台のことをいいます。この物見台は矢を射かけられた場合の防御のために、二階部分の縁が手すりでなく板貼りとなっています。
(看板資料より) 


由来記
田峯城は文明2(1470)年菅沼定信により築城され、5代菅沼定忠に至るまで今川・武田・織田・徳川勢の争いの狭間にあって、その時々の情勢に翻弄されながらも、山家三方田峯衆の根城であった。
天正3年5月の設楽原合戦では、城主定忠は約2百の兵を率いて武田方に属し、よく奮戦したが破れ、主君勝頼を守り田峯・武節・飯田へと逃れた。翌4年には菅沼一族並びに家老城所道寿、今泉道善が対立して骨肉相争う凄惨な払暁戦の場と化した。
勝頼が天目山で自刃後の天正10(1582)年5月飯田知久平城に於いて、定忠主従は最後を遂げた。
歴代の城主をはじめ、城に関わる多くの戦死者の祖霊を永遠に慰めるため、縁者一同此の地に供養塔を建立する。
(石碑記載文章より)

 



2003年10月11日


田峯城は県下有数の高山である段戸連峰を間近に控え、寒狭川の渓流をはるかに見下ろす標高387mの独立丘陵にある山城です。本丸から見下ろした寒狭川の蛇行と城をいただく山並みが、まさに大蛇のようであることから田峯城は別称「蛇頭城(じゃずがじょう)」「竜の城」とも呼ばれていました。田峯城は文明2(1470)年菅沼定信によって築かれ、定信→定忠→定広→定継→定忠と、代々田峯宗家菅沼氏の居城とされました。
当時は下克上の時代、今川氏をはじめ武田氏、織田氏、徳川氏などの強大な戦国大名が台頭するなか、この奥三河では作手の奥平氏、長篠の菅沼氏、そして田峯の菅沼氏が「山家三方衆」として結束していました。しかしその団結も時に拠っては崩れ、姻戚関係でありながらも骨肉相食む戦いを繰り広げることになります。五代目城主定忠は武田方に従い、家老城所道寿とともに長篠合戦に出陣しますが、武田方大敗の報を受けた留守居の将・叔父定直と家老今泉道善らの謀叛にあい、田峯城に入城できずに武田勝頼とともに信州に敗走することを余儀なくされます。復讐を誓った定忠は翌天正4(1576)年7月14日田峯城に夜襲をかけ、謀叛の一族老若男女96名を惨殺、首謀格の今泉道善を鋸引きの刑に処しました。定忠は天正10(1582)年飯田知久平にて討たれ、その後田峯宗家菅沼氏は断絶しました。
(看板資料より)


空掘・橋

空掘には木橋が架けられ、事ある時にはここで敵の侵入を防いで千党体制をとったと考えられています。
(看板資料より)


表曲輪

田峯城の入口近く(表側)にあることから表曲輪と称されています。
(看板資料より)


無名曲輪

言い伝えなどに名前の出てこない曲輪のため、このように称されるようになりました。
(看板資料より)


井戸曲輪

井戸跡もなく、掘っても水の出る地形ではないため、天水を貯える設備があったと考えられます。
(看板資料より)


蔵屋敷

蔵があった場所で、当時この蔵には、食物や武器などが保管されていたと考えられます。
(看板資料より)


畷曲輪

狭い面積の曲輪であることから、その意を示す畷の字が使われていたと考えられます。
(看板資料より)

 


搦手門


搦手門とは、裏門にあたります。この搦手門は、冠木や屋敷がなく門柱のみのつくりになっており、旗竿等を立てたまま通行できるよう工夫されています。
(看板資料より)


田峯城本丸
中世戦国時代の山城、田峯城は、当時の武家屋敷をしのばせる書院造りという様式を用いて復元しました。書院造りとは、それまでの公家文化でいう寝殿造りが変化して確立した建築様式です。中世の一時期には寝殿造りにおける「寝殿」の略化したものを「主殿」と呼ぶ建築が、公家、武家の間で一般化していました。田峯城の「御殿」は、この「主殿」を参考にしています。
「御殿」は梁間6間、桁行8間の大きさで、南に中門が、北には色代が張り出しています。屋根は板葺き、入母屋造り、中門と色代は切妻です。車寄に柿葺の唐破風をつけています。車寄は両折れの妻戸とし、その北の柱間には蔀戸を、車寄の南は中門で連子窓と妻戸が、中門の落縁には脇障子があります。南側は吹き放しの広縁になっています。内部は南側に18畳の2の間、6畳の公卿の間が北側に12畳の鑓の間、4畳の畳廊下が続いています。上段の間には床と違棚が並び、その南側に2畳の上々段が広縁に張り出しています。上々段には床と付書院があります。
本丸には「御殿」のほか、家臣の住居と馬屋を兼ねた「厩」、見張りのための「物見台」、「本丸大手門」、「搦手門」を当時の建築方法により復元しました。
(看板資料より)




「遠侍」「草間」「立場」より構成されています。「遠侍」は家臣の控える間、「草間」は馬の手入れをするところ、そして「立場」は馬をつないでおくところとして使われました。
(看板資料より)


本丸大手門


本丸大手門とは、田峯城の中心となる本丸への正式な表門です。板葺の棟門で、質実剛健な戦国時代の武家屋敷をしのばせる門構えです。
(看板資料より)


物見台


物見台とは敵の襲来等に備えた見張台のことをいいます。この物見台は矢を射かけられた場合の防御のために、二階部分の縁が手すりでなく板貼りとなっています。
(看板資料より)

 

 
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