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山梨県笛吹市

大蔵経寺

2014年07月12日

松本山大蔵経寺
当山は、養老年間行基菩薩の創建になると伝えられ、青獅山松本寺と称した。応安3(1370)年甲斐国守武田信成が伽藍を修造し、足利義満の庶子観道上人を講じて中興開山とし、真言宗に改め、その後松本山大蔵経寺と改称した。天正年間徳川氏の祈願所となり、明治維新まで甲府城代をして毎月17日に武運の祈願を行わしめたといわれる。新義真言宗檀林七ヶ寺の一つである。伽藍は元禄年間(1690年代)及び文化年間(1810年前後)に焼失、今日の建造物は天保(1830年代)から安政年間(1850年代)にかけて再建されたものである。境内には明治初年税制改正に反対の大小切騒動の際、責任者になって斬罪に処せられた義民名主島田富重郎の墓がある。
(看板資料より)

庭園

本堂

 



2005年05月29日

甲府から国道140号線を西に向って石和に入ってしばらく進み、石和温泉駅の反対側あたりに大蔵経寺がありました。大蔵経寺山の麓にあたります。門は閉まったままで開けることができず、入れないので見学をあきらめようとしていたのですが、墓域の方から入れるようだったのでそちらからお邪魔しました。

松本山大蔵経寺
当山は、養老年間行基菩薩の創建になると伝えられ、青獅山松本寺と称した。応安3(1370)年甲斐国守武田信成が伽藍を修造し、足利義満の庶子観道上人を講じて中興開山とし、真言宗に改め、その後松本山大蔵経寺と改称した。天正年間徳川氏の祈願所となり、明治維新まで甲府城代をして毎月17日に武運の祈願を行わしめたといわれる。新義真言宗檀林七ヶ寺の一つである。伽藍は元禄年間(1690年代)及び文化年間(1810年前後)に焼失、今日の建造物は天保(1830年代)から安政年間(1850年代)にかけて再建されたものである。境内には明治初年税制改正に反対の大小切騒動の際、責任者になって斬罪に処せられた義民名主島田富重郎の墓がある。
(看板資料より)

山川出版社の山梨県の歴史散歩によると、1568(永禄11)年3月、武田信玄は越後攻めにあたって、甲州の真言宗寺院に廻文をして戦勝祈願を命じているが、そのうちの1ヶ寺で、武田氏の祈願寺であったとのことである。

 

 
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