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山梨県中央市

大福寺

2004年08月14日

浅利与一公の層塔と五輪群

中央の層塔は、田の字状に並列した基礎を最下位として、その上に方形の基盤があり、その上に龕洞のある円筒主軸を置き、更に方形の屋蓋を平円軸を交互に四回重ね最上部に宝珠をもつ、3メートル余の層塔で左右の五輪塔群とともに凝灰岩をもって平安末期から鎌倉初期に作られたものと推定される。その悠揚せまらざる安定感のあるところ本県の石造美術の最たるもので全国的にも有数のものである。
(看板資料より)


浅利与一義成公記
久安5(1149)年、清光の第11子誕生し、16才元服の頃浅利郷を所領し郷名「浅利」を姓としたものと推定される。以来領民を慈しみながら、武将として研鑚を重ね、治承4(1180)年8月挙兵に呼応して富士川の合戦に馳せ参じ武将として地位を確立した。平家を追う義経に従い、文治元(1185)年3月24日壇の浦の合戦の折り、平家との矢合わせに勝ち、遠矢の誉れを天下に響かせ、三与の一人として浅利冠者殿と尊称されるに至り、頼朝御家人としてその活躍が見られる。
やがて将軍は頼家となり、建仁元(1201)年越後に反乱が起き、坂額御前の奮戦によって幕府軍は苦戦したが、ついに捕らわれて鎌倉に送られてきた坂額を頼家より請い受け、妻とした。小黒坂に坂額塚と云う塚があり、上向山大宮新田にその墓と云える遺跡がある氏神として敬った浅利諏訪神社には神宝として寄進した兜があり、富士宮市の富士浅間神社には義成公の画像が保存されている。
弓建嶺から一丁畑の田に「たにし」を取る老婆を白鷺と見誤って射たこと、九一色村八坂への通信に矢の落ちるところを今も矢落沢と呼ぶこと、浅利上の館址、国見をした国見堂そばには梵字(不動明王)自然石が残っているなどの伝承が残されている。
義成公は承久3(1221)年9月7日、73才を以って偉大な生涯を終えた。
法名:大福寺殿一箭存誉大居士位
墓域の松箭に万物変化の理を聴く想いである。
(看板資料より)


浅利与一義成公像

浅利与一義成公は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて豊富村を中心に広く一帯を統治支配していた甲斐源氏の武将である。源平合戦で弓の名手として活躍した佐奈田与一、那須与一とともに「三与一」の一人として特に誉れ高く、「平家物語」には、壇ノ浦の戦いで平家方の武将を400メートル以上先から射倒したことが記されている。
文治5(1189)年、源頼朝公による鶴岡八幡宮の塔供養には有力な御家人として供奉し同年奥州藤原氏との合戦にも参加するなど鎌倉幕府の優将としても伝えられている。
また義成公は、この公園に隣接する大福寺の再興にも大きく寄与したと言われ、境内北東に義成公とその一族の墓所があり五輪塔群が横並びする。その中央に悠揚迫らざる安定感に富んだ墓塔である層塔が義成公の質実剛健な気風を伝えている。
(看板資料より)

 


浅利与一之館址

 

 
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