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広島市

長楽寺観音堂


2009年08月11日

長楽寺観音堂縁起
福寿山不動院長楽寺観世音菩薩不動明王はその安座は今をさかのぼる壱千六十五年(日本歴史の平安時代)人皇六拾代醍醐天皇の御宇延喜5年橘師公を勅使として、この地を賜り大納言祐納の弟覚園阿舎梨法師、紀州高野山に於て得度し、密宗の法城としてこの地に長楽寺を創建したのに始まる。本尊観世音菩薩のご真像は弘法大師の作である。弘安六癸未年六月四日武田大善大夫信隆、佐東、佐西、安南、安北四郡の領主となり金山に築城の際寺領二十四貫文を寄せられ祈願所と定め駐屯武士を配し、金山城北部の警備と民心の収攬に努めその威信益々高かりしが、武田光和に至り武運振るわず終いに毛利元就の領地となり、その支配下に移るに至った。而して毛利氏は長楽寺の所領として米弐百石を寺禄とし祈願の聖地と定め信仰特に篤く世々近郷は勿論遠く関西方面からの信仰も群をなしその信仰厚く隆昌を極めたりしが、慶長5年徳川家康が江戸に開幕するに当り安芸国を領していた毛利輝元は、長州に移遷し翌慶長6年、福島正則、当国を領するに及んで長楽寺所領の寺禄弐百石を没収した。以来漸次衰頽に傾き二王門は二王尊と共に厳島に移譲し七堂伽藍は維持困難となり遂に廃寺の運命を辿るに至った。
しかし観音堂内に鎮座のご本尊観世音菩薩により保存維持せられ開基以来33年目毎にお開扉禮の典禮を現在迄継続し広く世人の信仰の的としている。
(看板資料より)

 

 
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