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山梨県笛吹市

長昌院

2014年07月12日

天正10(1582)年の春はまだ肌寒い風が吹いていました。甲斐国主武田勝頼公は、織田徳川の連合軍に追われて、韮崎に造ったばかりのお城を焼いて、わずかな供を連れて甲州街道を落ちていきました。落人の中には武具を持たない女子供も多く、これがかつて最強の軍団だったとはとても思えないほど哀れな姿でした。供人の数も一夜明けるごとに少なくなり、この年の3月7日、今はもう従う者も数えるほどとなり、心身共に疲れ果て、川中島の長昌院に立ち寄りました。この寺は宇賀山長昌院といって、いま寺の境内に「勝頼公腰掛けの石」が残されています。この後3月11日、田野の地で勝頼公一行は自害するのです。
(議会だより いさわ より)


勝頼の腰かけ石



2007年04月15日

長昌院は石和温泉街から少し離れたところにありました。ここには天正10(1582)年武田勝頼公が西に向って落ちていく時に立ち寄り、腰掛けたという石があるとのことでした。本堂の右奥の方に行って尋ねてみたところ、お寺の方が親切に対応してくれました。武田勝頼公が腰掛けた石は本堂の前にあるとのことでした。またこの腰かけ石に関する資料などがないかどうか聞いてみたところ、以前にこのお寺の娘さんが自由研究でまとめたものを見せてくれました。それによると腰かけ石の側面に水晶が埋められているとのことでしたが残念ながら私には水晶を確認することができませんでした。私も腰掛けてみましたが、確かに腰かけるにはちょうどいい高さの石でした。


勝頼の腰かけ石

天正10(1582)年の春はまだ肌寒い風が吹いていました。甲斐国主武田勝頼公は、織田徳川の連合軍に追われて、韮崎に造ったばかりのお城を焼いて、わずかな供を連れて甲州街道を落ちていきました。落人の中には武具を持たない女子供も多く、これがかつて最強の軍団だったとはとても思えないほど哀れな姿でした。供人の数も一夜明けるごとに少なくなり、この年の3月7日、今はもう従う者も数えるほどとなり、心身共に疲れ果て、川中島の長昌院に立ち寄りました。この寺は宇賀山長昌院といって、いま寺の境内に「勝頼公腰掛けの石」が残されています。この後3月11日、田野の地で勝頼公一行は自害するのです。
(議会だより いさわ より)

 
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