庁南城 |
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妙見神社
甲斐の守護武田信満は、前関東管領の上杉禅秀の乱で禅秀についたため、応永24(1417)年2月、鎌倉公方足利利持氏に攻められ、甲斐の木賊山で自殺した。子の三郎信重・八郎信長は京に移った。信長は六代将軍義教に仕え、結城合戦に千葉胤直と共に加わり、結城城攻撃に参加した。宝徳元(1449)年、永享の乱で自殺した足利持氏の末子成氏が鎌倉公方となった時、信長は近習として仕え、里見義実らと共に転戦して功を立て、上総を抑えて上杉氏に抗した。信長の娘は義実に嫁したといわれ、両者は親しい関係にあった。 |
庁南城跡太鼓森 長南は長柄郡の南から起こった呼称で、長北に対する語である。即ち長柄郡の南半、それもその中心として現長南の地が大字長南としてのこったのであろう。歴史的には、上総平氏の血を引く平姓長南氏が当地の在地領主であったと思われ(長福寿寺蔵木造慈恵大師座像銘文『千葉県資料』金石文篇一)、天台宗の壇林として房総天台を総管した長福寿寺の旦那でもあった。恐らく、その館も初めは三途台の一画にあったと推測される。 長南町の公民館の方にお話をお聞きして現地に行くことができました。城跡の詳細な跡地は不明とのことでしたが、デイサービスセンターびおとーぷの裏にある溜め池のようなところの西側一帯あたりではないかと話してくれました。溜池の方まで行ってみましたが特に何もなかったので引き返し、奥の山方に行ってみると庁南城跡太鼓森の看板があって更に進んで行くと鳥居があって妙見神社がありました。ここが本丸というわけではないと思いますが城の一部だったのではないかと思います。
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