足柄城 |
2012年01月14日 |
足柄城は国境の城としての性格を持ち、本格的に築城工事が行われ、城としての形態が整えられたのは後北条氏の治世下である。その時期がいつかは不明だが、「相州古文書」に足柄城普請についての記事(天文24年)が散見されることから、天文年間(1532-55)には、隣国甲斐武田の侵攻に備えて、かなりの防備が施されていたものと考えられる。「諸国廃城考」には、「永禄12年、武田晴信攻めて是を陥る(北条氏之支城也、城主未考)」とある。 |
山の神社
足柄峠は古くから官道として往来が盛んであったので峠越えの旅人の道中安全と富士の裾野の人々の安泰を祈願する為富士山の一望できるこの地を霊地として山の神社を建立心の拠所とした。
|
2005年12月18日 |
足柄城址 |
二の郭
一の郭
この池は、底知らずの池又は雨乞い池と云われ、底は小田原に通じて居るとも云われて居り、又干ばつ続きの折には、池の水をかきまわし雨乞いをすれば必ず雨が降り、それこそ干天の慈雨とされたと云われ干日続きには遠近の村人達が雨乞いに来たものです。池の名称は足柄峠の守護神、足柄明神姫玉手姫から付けられたものですが、もともとこの池があったものか又足柄城の本丸井戸跡か、そのいずれかと思われますが井戸の大きさと池の大きさがやや一致するぐらいの面積であることは、史実と伝説の関連か非常に興味深く思えるではないでしょうか?
|