浅利明神 |
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甲斐源氏の後裔、浅利右馬助信種は武田方の侍大将で、24将の1人にかぞえられた勇武の人と伝えられています。史書によると、永禄12(1569)年10月の三増合戦に時、信種は武田軍の左翼にあって奮戦していましたが、小田原方北条綱成配下の放った銃弾を受け、この丘の下で戦死しました。信玄は信種の死を悼み、墓をつくって篤く供養しました。その後、寛政元(1789)年、村人が墓のわきを掘ったところ小さな骨壷が出てきました。人々はこれを信種の遺骨として、墓地の北にまつり直し、浅利明神として尊崇、以来、除疾、除災等の験あらたかな神とし、祈願成就の際、木太刀を奉納する習わしが今に伝わっています。 |
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三増合戦場の碑のところから、ゴルフ場、志田峠方面を見た後に浅利明神にも寄ってみました。1年半ぶりでしたが下の写真と比べても分かるとおり、浅利明神の周辺はきれいに整備されていました。 |
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甲斐源氏の後裔、浅利右馬助信種は武田方の侍大将で、24将の1人にかぞえられた勇武の人と伝えられています。史書によると、永禄12(1569)年10月の三増合戦に時、信種は武田軍の左翼にあって奮戦していましたが、小田原方北条綱成配下の放った銃弾を受け、この丘の下で戦死しました。信玄は信種の死を悼み、墓をつくって篤く供養しました。その後、寛政元(1789)年、村人が墓のわきを掘ったところ小さな骨壷が出てきました。人々はこれを信種の遺骨として、墓地の北にまつり直し、浅利明神として尊崇、以来、除疾、除災等の験あらたかな神とし、祈願成就の際、木太刀を奉納する習わしが今に伝わっています。 浅利明神の位置はかなり分かりにくいです。東名厚木カントリークラブの入り口のちょうど反対側あたりのゴルフ場のコースのすぐ横にありました。OB杭の横だったのでOBをたたいた人がボールを探しに来ているかもしれません。ゴルフ場から離れないように三増峠の方へ進めば、浅利明神入口の案内棒があるのですぐわかると思います。路は狭く、浅利明神のところからは砂利道ですが更に奥に進むと少し広いところがあるのでそこでUターンできると思います。 愛川町役場教育委員会訪問
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