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神奈川県愛川町

浅利明神


2014年01月04日

甲斐源氏の後裔、浅利右馬助信種は武田方の侍大将で、24将の1人にかぞえられた勇武の人と伝えられています。史書によると、永禄12(1569)年10月の三増合戦に時、信種は武田軍の左翼にあって奮戦していましたが、小田原方北条綱成配下の放った銃弾を受け、この丘の下で戦死しました。信玄は信種の死を悼み、墓をつくって篤く供養しました。その後、寛政元(1789)年、村人が墓のわきを掘ったところ小さな骨壷が出てきました。人々はこれを信種の遺骨として、墓地の北にまつり直し、浅利明神として尊崇、以来、除疾、除災等の験あらたかな神とし、祈願成就の際、木太刀を奉納する習わしが今に伝わっています。
(看板資料より)



2004年10月10日

三増合戦場の碑のところから、ゴルフ場、志田峠方面を見た後に浅利明神にも寄ってみました。1年半ぶりでしたが下の写真と比べても分かるとおり、浅利明神の周辺はきれいに整備されていました。



2003年05月28日

甲斐源氏の後裔、浅利右馬助信種は武田方の侍大将で、24将の1人にかぞえられた勇武の人と伝えられています。史書によると、永禄12(1569)年10月の三増合戦に時、信種は武田軍の左翼にあって奮戦していましたが、小田原方北条綱成配下の放った銃弾を受け、この丘の下で戦死しました。信玄は信種の死を悼み、墓をつくって篤く供養しました。その後、寛政元(1789)年、村人が墓のわきを掘ったところ小さな骨壷が出てきました。人々はこれを信種の遺骨として、墓地の北にまつり直し、浅利明神として尊崇、以来、除疾、除災等の験あらたかな神とし、祈願成就の際、木太刀を奉納する習わしが今に伝わっています。
(看板資料より)

浅利明神の位置はかなり分かりにくいです。東名厚木カントリークラブの入り口のちょうど反対側あたりのゴルフ場のコースのすぐ横にありました。OB杭の横だったのでOBをたたいた人がボールを探しに来ているかもしれません。ゴルフ場から離れないように三増峠の方へ進めば、浅利明神入口の案内棒があるのですぐわかると思います。路は狭く、浅利明神のところからは砂利道ですが更に奥に進むと少し広いところがあるのでそこでUターンできると思います。

愛川町役場教育委員会訪問
帰路、愛川町役場を訪れ、受け付けの人に三増合戦のことについて詳しく教えて欲しいと言ったら教育委員会に行くよう教えてくれました。エレベータで3階に行って新館の方に行ったらすぐに教育委員会の場所は分かりました。もう17時近い時間でしたが三増合戦についての資料などがあったら見せてほしいことを伝えたら快く対応してくれました。愛川町教育委員会発行の「愛川町の文化財」や「三増合戦」のパンフレットを頂くことができました。更に詳しく知りたい場合は学芸員の方に話を聞くこともできるようなのですが今日はご不在とのことでした。今度は事前に連絡してから来て詳しい話を聞きたいと思います。
愛川町教育委員会の三増合戦によれば、
小田原城を囲んでいた信玄は永禄12年10月6日の朝に鎌倉鶴岡八幡への参詣と言って小田原を出発。平塚からは進路を北に変えその日の夜は田村、大神のあたりに宿営。これを知った北条氏康は、信玄は必ず三増峠を越えると判断し、次男氏照に命じて三増へ向かわせその後を三男の氏邦、女婿綱成など関東各地の兵約2万が向かった。翌7日武田勢は出発し、北条勢の動きを知った信玄は「氏康が来てさえ容易でない戦いに、末子どもだけで何ができよう。こんどのいくさは信玄が勝利」と確信したという。
一方氏照ら北条勢はあまりに三増到着を急いだため各部隊は混乱してしまい、せっかく先に到着したが、いったん半原台地に退いて態勢を整え、武田軍を金山、上三増の凹地に誘い込んで攻撃しようとしました。しかし山岳戦に馴れた武田方は氏照の思惑とは違って三増の高地を占領してしまいました。
陣容を整えた北条勢は8日の明けがたから志田、道場、町屋の原に兵を進めここに相甲二軍の合戦は開始されました。武田勢の一部が隊列を乱して山を登るのを、退却と見まちがえた北条勢は武田軍を攻め立てて北条軍有利に進み、武田方の侍大将浅利信種が、北条綱成の部下が放った鉄砲で胸を撃たれて戦死。志田原に向かった氏照は勝頼、馬場信房らの陣地を攻撃して徐々に武田勢を追い詰めた。しかしこのとき、先ほど中峠を登っていった山県昌景率いる5千の兵が山の向こうで折り返して志田沢沿いに戻ってきたのです。これを機に北条勢は総崩れとなり勝敗は決したそうです。
三増合戦碑のところにあった合戦図はこれらの状況をもとに作られていたので武田軍が峠に陣取って、南から攻めてくる北条軍を迎え撃ったような形になっていたのですね。

 

 
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