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長野県千曲市

荒砥城

2014年11月
08日

甲斐・武田信玄と越後・上杉謙信両雄の戦い「川中島合戦」は今から400有余年前の戦国時代、信州信濃・川中島の地で繰り広げられた約10年にわたる戦いで、永禄4年の第4次川中島合戦の総大将同士の直接決戦はとても有名な史実です。
この歴史の発端は信州東北の雄、葛尾城主の村上義清が武田信玄に攻められ敗退し、援軍を上杉謙信に頼んだことから始まります。その支族「山田氏」は平安時代末期から続く在地の豪族であったようです。立木物と言われる十一面観世音菩薩を本尊とします。古刹清源山智識寺大御堂の建立、荒砥城などの築造は山田氏ゆかりの遺構と思われます。山田氏の滅亡後、荒砥城は「屋代氏」に属するものとなりましたが、その間、地方豪族による城番管理がなされたことは興味あることです。天正11年、上杉方であった松代城副将の屋代秀正は徳川家康と通じ荒砥城籠城の上、後に上杉諸将に攻められ落城したと伝えられています。
(パンフレットより)

 



2003年09月22日

甲斐・武田信玄と越後・上杉謙信両雄の戦い「川中島合戦」は今から400有余年前の戦国時代、信州信濃・川中島の地で繰り広げられた約10年にわたる戦いで、永禄4年の第4次川中島合戦の総大将同士の直接決戦はとても有名な史実です。
この歴史の発端は信州東北の雄、葛尾城主の村上義清が武田信玄に攻められ敗退し、援軍を上杉謙信に頼んだことから始まります。その支族「山田氏」は平安時代末期から続く在地の豪族であったようです。立木物と言われる十一面観世音菩薩を本尊とします。古刹清源山智識寺大御堂の建立、荒砥城などの築造は山田氏ゆかりの遺構と思われます。山田氏の滅亡後、荒砥城は「屋代氏」に属するものとなりましたが、その間、地方豪族による城番管理がなされたことは興味あることです。天正11年、上杉方であった松代城副将の屋代秀正は徳川家康と通じ荒砥城籠城の上、後に上杉諸将に攻められ落城したと伝えられています。
(パンフレットより)

麻績城から冠着山(姨捨山)を通って上山田温泉に出て葛尾城に向かいましたが、その後笄(こうがい)の渡しを経て荒砥城に向かいました。しかし場所がよく分からないので旧上山田町役場で場所を聞いたらなんと先ほど冠着山から下りてきたところで知らずに通り過ぎていたのです。上山田温泉の今夜宿泊する宿の前を通過して再び坂を登り、善光寺別院を通り過ぎたところに荒砥城の入口がありました。城山史跡公園と書いてあるので少し分かりにくいのだと思います。入口には暇そうな管理人のおっちゃんがいてここで300円を支払って中に入ることができます。おっちゃんの話ではここを訪れる人は、温泉に来た人がついでに寄るケースがほとんどなのだそうです。
史跡公園の中には門や、郭、兵舎、櫓などが復元されていて荒砥城の紹介ビデオを見ることもできます。

 
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