大福山建忠寺(廃)は、穴山第四代信懸を開基とする。
穴山氏の河内進出はさだかではないが、応永25(1418)年頃、三代信介の時であると考証されている。
信介の子、信懸は幼名を弥九郎といい、兄、乙若丸が早逝したため、穴山第四代を継承した。梅雪の曽祖父にあたる。
信懸在世の永正の頃は、本宗武田信虎による甲斐一国の統一を目指した悪戦苦闘の時期であったが、信虎に最も信頼され股肱として力を尽くしたという。
没年について国志では、延徳3(1491)年3月廿日としているが、同書の南部城跡の頃には「永正ノ頃ハ穴山兵部少輔信懸ノ本村ニ住スルコト見エタリ」とあり判然としないが、高野山成慶院武田家過去帳には、「永正癸酉(十年)五月廿七日卒」とあり妙法寺記及び菊隠録の記載もこれを裏付けているので、信懸の没年は永正10(1513)年と推定できる。
建忠寺を菩提寺とし、法名は建忠寺殿中翁道公大禅定門といい、当時の北裏手の山腹に建忠寺殿と刻んだ宝篋印塔がある。
なお、国志では、臨済宗下山南松院の末寺で、本尊は観世音菩薩、当国札所三拾三番のうち順礼第二拾八番の札所となっている。
明治8(1875)年、廃仏毀釈の災により廃寺となり、墓所も荒廃していたが昭和62(1987)年12月、町により整備されたものである。
古記録等はことごとく散逸しているが、位牌は中野松岳院に移されている。
(看板資料より) |