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ブハラでブラブラ


<32日目>1989年3月12日(日)

6時起床。ブハラでブラブラするのも今日で終わりだ。昨日酒を飲んだので今日はすっきりと起きれた。シャワーを浴びて8:00〜8:45日記を書く。

朝食を食べて(後から谷口氏が来る)、今日はどうするかと考える。もう一つのバザールにも行ってないし、チャル・ミナルというメドレセも見ていない。それにピラフも食べねばならない。
まず日名子氏と一緒にリャビ・ハウズに行く。レーニン広場をぬけて変な道を通り、いつものリャビ・ハウズに到着である。朝食を食べたばかりだったので今はチャイだけにする。また後でピラフを食べよう。チャイを飲みつつボケーッとする。

リャビ・ハウズ

日名子氏がそのうちイスマイルの方のバザールへシシカバブーを食べに行ってしまった。私もそのうちリャビ・ハウズを出る。新市街の方へ行く。四つ角でシシカバブーがあったが、まだ腹はへらない。そのままブハラ駅の近くを通ってバザールにやってきました。が、もうあまりおもしろくないので素通りしただけであった。まだ同じ道を引き返してきてさっきのシシカバブー屋で肉を食べる。ウマイ! ここからまたリャビ・ハウズへとつながっている道であるプーシキン通りを通りチャル・ミナルのメドレセを探す。確かに地図によるとチャル・ミナルはこのプーシキン通りにあるはずなのだが。。。無い!  へんなおっちゃんに聞いてみると、このおっちゃんのいたところの道を入って行くとチャル・ミナルがあるらしい。行ってみると4本のモスクがドーンと立っていた。こんな形のメドレセははじめて見た。もちろんブハラではここにしかないらしい。けっこうでかい。写真を撮っているとここでサッカーをやっていた地元の少年たちがヤポーニアと言ってこのチャル・ミナルを案内してくれた。5人くらいいただろうか。こちらの名前を教えたら、名前で呼んできた。階段があってこれを登り、あのサマルカンドのビビハニムみたいに上までつれていってくれた。ここから旧市街のカリヤンミナレットなどが遠くに見えた。ここで6人で写真を撮って住所を聞く。みんなカラテ、カラテといってくる。カラテはすごい人気だ。どうもこのチャル・ミナルはプーシキン通りではなくて1本北のコムナール通りにあるらしい。このコムナールを西に進んだ。

本屋へ行ってみたがちょうど昼休みの時間で店がやっていなかった。しょーがないのでリャビハウズで戻ることにした。途中カリヤンミナレットのあたりを歩いているときに葬式みたいな行列が歩いていた。ついでにこのカリヤンミナレットの写真をもう1枚撮った。

リャビ・ハウズに来てピラフを食べる。メシが固くてウマイ! タキサラファンを通ってホテルに戻ってきたのが15時ころだった。日名子氏もすぐに帰ってきた。夕方暇なので将棋をやる。私の勝ちだ。これでこの前のシベリア鉄道のときと続けて2連勝である。もう一局やっていたのだが途中で日名子がカフェにコーヒーを買いに行ってしまった。が、カフェがやっていなくて1Fであのバーのマスターに会ったらしい。まだ16時ぐらいであったがバーへ行くことにした。バーで将棋をやる。私はもう集中できないので負けた。18時ころまでこのマスターといろいろ話す。なぜ日本は経済大国になったのかとか、いろいろ聞いてきた。(一緒に写真を撮る)

チャル・ミナルのメドレセ

19時になったのでレストランへ行ってメシを食う。谷口氏と会い一緒に食べる。レストランから出て来る時に日本の団体と会った。この人達に飛行場まで連れて行ってもらおうとしたらしく日名子と谷口氏はここで彼女らが食べ終わるのを待つことにしたらしい。私はここのレストランの変なおっちゃんとロシア語でいろいろ話す。歌舞伎のTシャツをあげたが変な顔をして喜ばない。日名子の着ているニューヨークヤンキースがいいらしい。シャンパン2本と取り替えようと言っていたが日名子に酒と交換と言っても無理な話だ。

その後、谷口氏が下へ飲みに行ってしまったので我々も行った。今日はあまり飲まなかった。ここでもアフガニスタンの話やらゴルバチョフの話をした。このマスターはいろいろよく話してくれる。奈良の2人も来た。今日はこのバーは我々5人しかいない。マドンナの曲も聞けた。このマスターがテープを持っていたのだ。ウレシイ! まさかこんなこ所で聞けるとは思わなかった。
0時過ぎに帰って寝た。

(おわり)

 

 
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