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家庭訪問


<14日目>1989年2月22日(水)

6:30起床。だんだん時差ボケが直ってきた。起きてシャワーを浴びて7時から日記を書き始める。今日は天気がいいかもしれない。しかし昨日みたいな日もあるので油断はできない。今日はどこへ行くかまだ決めていないが、ゲルツェン通りをまわってみようと思う。今日で14日目。2週間が過ぎた。5分の2終了である。いまだに正露丸を1粒も飲んでいないのが奇跡である。昨日の朝は30cmくらいの固いクソが出て流れなかったくらいだ。部屋を出てまず1階のフロントで移動のバウチャーを出す。航空券をもらわねばならない。今日の夕方に来ればいいらしい。

8:20〜食堂で朝食である。今日はあまり食が進まない。といっても日名子よりは食ったと思う。完全に胃が朝型になってしまった。朝食の量が一番多い。9時には部屋に戻ってきて日名子が荷物整理を始めた。彼はスビニールを買いすぎである。もうリュックはパンパン状態だ。

10時にホテルを出る。まず赤の広場に行き、レーニン廟でレーニンの遺体を見ることにした。が柵があって入れない。またトロイツカヤ塔まで行って荷物を預けてキオスクのところで並ぶ。前の女の人が地球の歩き方を見たがっているので見せてやる。そして団体で公園を歩き赤の広場へと向かう。途中恐そうな人達が立っていて何度もチェックを受ける。赤の広場の入口で日名子氏はカメラを見つけられてしまい列を離れる。列は赤の広場の中央まで続き、そこからまっすぐにレーニン廟に向かっている。途中11時の鐘の音とともに兵士の交代があったので見学は中断した。中央まで行ったところでまたチェックがあり日名子はテープレコーダーを取られる。ったく日名子は何をやっとんじゃい。そしてついにこの2人の兵士の間を通ってレーニン廟の中へ入る。入ってすぐに左へまわり、階段をおりて奥へ進む。はじめはガラス張りかなんかになっていると思っていたが直接生で見ることができた。なんだかあまり大きくない人だったようだ。まるで人形のようだった。中にはソ連の兵隊だか警官だか分からないがたくさんいてレーニンを守っている。出てきてから日名子と会う。ここからまた奥に行き、いろんな人の墓参りである。日本の片山氏の墓もあった。コスイギン首相もあった。中央の像付きの墓では、チェルネンコ、ブレジネフ、アンドロポフ、スターリン等の墓もあった。

そして赤の広場の向こう側、すなわち聖ワシリー寺院の前に出てきた。ここからは10月革命50周年広場へは行けないので、グム百貨店の中を通り、日名子と別れて私は再びトロイツカヤ塔のところへ来て荷物をもらう。このまま歩くには荷物が重いのでひとまずホテルに帰ってきた。鍵をもらおうとしたらバウチャーが出来ているらしいのでもらった。(ホテルのやつ)

12時には部屋に入り望遠レンズやら辞書やらをおいて、12:30には再び出発である。プロスペクトマルクサからメトロに乗り、4つ目のコムソモーリスカヤで乗り換えて2つ目のノヴォスロボーツカヤでおりる。クレムリンの方向を確かめてから北へ向かう。ミナエフスキーバザールからドストエフスキー記念館へと向かった。途中ずいぶん道を聞きながら行ったが、30分以上歩いてやっと着いた。が残念なことにニェーラボーティェッドだ。修理していた。しかし外にドストエフスキーの像があったので1枚写真を撮っておいた。しかたなくまた来た道を引き返す。ノボスロボーツカヤからメトロに乗りこの前のゴーリキー通りのマドンナを買った所のビュロルースカヤを通ってクラスノプレスネンスカヤでおりる。このメトロの駅前でまたシシカバブー屋があったので昼飯代わりに食べる。私が最後の客で店じまいして帰ってしまった。隣のケーキ屋の女の人がよろしい。そこからバリカードナヤ通りを東へ向かい途中でっかい建物があったので写真を撮る。ゲルツェン通りになったところにチェホフの家があるはずなので探す。地図とはちょっと違うところにあった。(15時着)入るときに鉄の棒に引っかかってしまい足を痛める。。。。入って入場券を買ってコートを預けてさあ中に入ろうとしたら入場券がどこかへ行ってしまった。またコートの中を捜してやっと見つける。1階の奥に書斎があった。ここでいろんな本を書いたらしい。英語の説明の紙をもらったがよく分からなかった。階段を登ってまず入ったのが寝室のようだ。次の部屋が展示室みたいで家具は無かったが、アングリスキー説明書によるとダイニングルームらしい。階段をおりて帰ろうとすると小学生の集団が先生に連れられてここに来ていた。みんな静かに先生の説明を聞いていた。ゲルツェン通りをまた東へ向かう。今度はゴーリキーの家を探す。ゴーリキーの家はタス通信社の近くにあるのでタス通信社を目印にして探した。途中公園があったので入ってベンチに座り煙草を吸う。奥に女の人がいた。男の人が1人入って来た。隣のベンチに座る。ロシア人3人(青年)も入ってきてやたらと唾を吐きやがる。煙草をくれというのでちょうど2本しか残っていなかったから箱ごとあげた。マールボロだったのでずいぶん喜んでいた。プリーズと言っていた。変な英語だ。バスのところに行ってみんなに見せびらかしていたようだ。この公園を出てロシア人にゴーリキーの家を聞くがあまりみんな知らないらしい。が、おばさんが教えてくれた。この公園のすぐ隣だった。ここは入場無料だった。コートを預けて変な靴を履かされ中に入る。入るときに氏名、職業、国名を書いた。ここはあまりおもしろくなかった。ゴーリキーの使っていたタイプライターがあった。ここは16:00〜16:15ですぐに出てしまった。


ドストエフスキー記念館
3時間も歩いてきたのに修理中であった。

更に東へ向かい並木道とぶつかった。ここでまた女の人にグジェークレムリと聞くと何だかロシア語でしゃべっているが分からない。変な方向を指差されるが私は自分で地図で調べて違う方向へ行く。実はこちらで良かったのだ。まったく地元の人は自分の住んでいる町を良く知らないのか、それとも私のロシア語が通じていないのか? ここにタス通信社があったので写真を撮る。そしてしばらく歩いているとチャイコフスキーの像のあるteatp(劇場)があった。もうここらへんからはクレムリンが見えた。このゲルツェン通りはあのアルバート通りみたいに建物の色が色とりどりできれいだ。16:30にはクレムリンの10月革命50周年広場に出てきた。

チャイコフスキーコンサートホール

創立者はルビンシュタイン。チャイコフスキーもここで若者を指導した。
ラフマニノフやプロコフィエフもここを卒業した。

今日は是非ボリショイ劇場へ行こうと思っていたのでここから「ボリショイ作戦」を開始する。チケットは外貨でないと売ってくれない。しかも米ドルが好まれるのでまず米ドルを手に入れねばならない。ホテルに戻ってきてマールボロをワンカートン買って1万円払う。案の定おつりが米ドルである。40ドル強と日本円も含まれていた。そしてすぐにホテルを出てボリショイ劇場の前へ行きベンチに座りカメラをいじくる。。。しばらくすると予想通りダフ屋がやってきました。1枚20ドルでチケットを手に入れることができました。どうも歌劇らしい。題名はよく分からないがプーシキン原作の何かで、リムスキーコルサコフが作曲した歌劇のようだ。17:20ホテルに戻ってくる。足の裏が痛い。毎日よく歩くから疲れる。そのうち日名子も帰ってきた。日名子はあの後またグム百貨店に行って手袋を探していたらしい。それから地球の歩き方にのっていたゴーリキー通りのショッピングセンターへ行ったらしいがあまりおもしろくなかったようだ。その後私がシシカバブーを食べたあのメトロの近くの動物園へ行きアルバート通りへ行って軍服屋へ行ったとのこと。日名子もチケットを入手したようだ。場所はボリショイ劇場の隣のマールイ劇場である。

2人とも19時開演なので18:15にはホテルを出る。ボリショイ劇場の前で別れて私はボリショイ劇場に入る。席は4Fらしいが階段を6階ぐらい登った。最上階だった。前から2列目のところで舞台が半分ぐらいしか見えなかった。まあダフ屋から買ったのだからしょうがないだろう。コートを預けたとき、望遠鏡をもらったのでのぞいてみるがあまりよく見えない。それにしても中は立派だ。大きなシャンデリアがあって幕の上にはレーニンが2人、その上にソビエト国旗の絵があった。19時過ぎには始まった。後ろの席の人達はいっせいに前の空いてい席につめてきた。演奏が始まったのにガヤガヤとうるさい!歌劇はこういうものなのか? 第1幕はちゃんと見ていたがどうも疲れているらしく第2幕は寝てしまった。もう限界が来たので第2幕が終わったところで外に出てきてしまった。(21時) 外で煙草を吸いつつ劇場案内を見ているとまたダフ屋が来ました。明日のチケットらしい。SWAN LAKEというのでびっくり。「白鳥の湖」である。モスクワ最後の夜にボリショイ劇場で白鳥の湖が見れるのだ。よしよし。しかしあまり期待できないので題名を書き写してホテルに戻ってきてさっそく辞書で調べてみるがやはり白鳥の湖らしい。しかしまた4Fだ。まあいいや!

帰ってきて風呂に入り、ジュースを2本(チェリーコーク、7UP)を飲んでいると22時に日名子が帰ってきた。マールイ劇場では演劇みたいなやつで、全然おもしろくなかったらしい。それでも彼は最後まで見てきたのだ!エライ! ボリショイの前であのロシア語ペラペラの人を見かけたらしい。。。
私はすぐに寝た。(22:30ころ)

 

 

 
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