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山梨県北杜市

若神子城

2013年10月13日

若神子城は「古城」あるいは「大城」とよばれる遺構を中心に、東に北城、湯沢の西に南城の三ヶ所からなる山城の総称である。連郭式といわれる中世の古い形態を残す山城で、新羅三郎義光によって築かれたと云伝えられている。「甲斐国志」に「若神子、多麻庄ニ属セリ。天正壬午八月ヨリ北条氏直本陣ヲ居キシ処…」とある。即ち、天正10(1582)年武田氏滅亡后、信州から侵攻した北条氏直の相模勢と家康が率いる徳川勢が対峙した時、古城に篭った北条軍が築構した薬研堀が主郭部の東端しから厚く焼土が堆積した跡が発見され、南端部からは見張台の跡と思われる柱穴と堀り方も検出された。往時「塩の道」ならぬ「のろしの道」の情報、通信拠点としての若神子城に、つるべ式狼火台を復元し、戦国の情報伝達を今に伝え、生きた歴史教育の一助になることを願います。
(看板資料より)

ふるさと公園
この農村公園は、甲斐源氏(武田氏)発祥の地といわれる、ここ若神子城古城に往時の主影をとどめながらつくられたものです。戦国時代には、ここに館を構え、峡北の守りを固めたといわれ、城跡には土塁や郭また大手門を思い起こさせる巨石が残っています。
この公園は、先人達が活躍した古城の復元を図るばかりでなく「伝説と現代の出会いの場」として、またひろく「町民のいこいの場」として作られたものです。あなた自身が「新たな伝説の場」を作る主人公になり、この公園がふるさとの新しい象徴になることを期待しています。
(看板資料より)

若神子城の「のろし台」
武田信玄の時代に若神子は、信州攻略の重要な中継点として、たびたび信玄が陣立てをおこなった所です。この、のろし台は、重要な、のろし通信網の拠点であったと考えられ、町内各地にある、のろし台の要になっていた場所です。信玄の時代、通信網は国中に張り巡らされ、信州の川中島から甲府まで約2時間で連絡できたといいます。町内に約2〜3Kmの間隔で点々と約12箇所の、のろし台があります。この距離は、天気の悪い時など、のろしが使えない場合、代りに鐘や太鼓で知らせる事のできる距離です。須玉町ののろし台の数は県下最多を誇ります。
(看板資料より)

公園の概要
この町は、信州との境を接する交通の要地であったことから、戦国時代には、情報伝達の手段としての「のろし台」が整備され、その数は遺構・復元などを含め約20ヶ所にのぼり、県下随一です。
また周囲には甲斐源氏の祖、新羅三郎義光が住んでいたとされる「若神子城跡」や、1875年に建てられた擬洋風建築の「旧津金学校」(須玉町歴史資料館)、さらに百体余りの石仏を有する古刹・海岸寺など歴史的文化遺産が数多くあります。
自然景観にも優れ、金峰山、本谷川渓谷等は四季折々に様々な表情を創り出し、この豊かな自然に抱かれて、信玄の隠し湯と伝えられる増富温泉や増富金山が静かなたたずまいを見せています。
先人達が育み、築きあげてきた文化に親しみ、誇りのもてる郷土を守り、育て、末永く後世に伝えていくため、この地域を歴史文化公園「のろしの里・すたま」に指定しました。
(看板資料より)

 



2003年08月30日

 

若神子城は「古城」あるいは「大城」とよばれる遺構を中心に、東に北城、湯沢の西に南城の三ヶ所からなる山城の総称である。連郭式といわれる中世の古い形態を残す山城で、新羅三郎義光によって築かれたと云伝えられている。「甲斐国志」に「若神子、多麻庄ニ属セリ。天正壬午八月ヨリ北条氏直本陣ヲ居キシ処…」とある。即ち、天正10(1582)年武田氏滅亡后、信州から侵攻した北条氏直の相模勢と家康が率いる徳川勢が対峙した時、古城に篭った北条軍が築構した薬研堀が主郭部の東端しから厚く焼土が堆積した跡が発見され、南端部からは見張台の跡と思われる柱穴と堀り方も検出された。往時「塩の道」ならぬ「のろしの道」の情報、通信拠点としての若神子城に、つるべ式狼火台を復元し、戦国の情報伝達を今に伝え、生きた歴史教育の一助になることを願います。
(看板資料より)

ふるさと公園
この農村公園は、甲斐源氏(武田氏)発祥の地といわれる、ここ若神子城古城に往時の主影をとどめながらつくられたものです。戦国時代には、ここに館を構え、峡北の守りを固めたといわれ、城跡には土塁や郭また大手門を思い起こさせる巨石が残っています。
この公園は、先人達が活躍した古城の復元を図るばかりでなく「伝説と現代の出会いの場」として、またひろく「町民のいこいの場」として作られたものです。あなた自身が「新たな伝説の場」を作る主人公になり、この公園がふるさとの新しい象徴になることを期待しています。
(看板資料より)

若神子城の「のろし台」
武田信玄の時代に若神子は、信州攻略の重要な中継点として、たびたび信玄が陣立てをおこなった所です。この、のろし台は、重要な、のろし通信網の拠点であったと考えられ、町内各地にある、のろし台の要になっていた場所です。信玄の時代、通信網は国中に張り巡らされ、信州の川中島から甲府まで約2時間で連絡できたといいます。町内に約2〜3Kmの間隔で点々と約12箇所の、のろし台があります。この距離は、天気の悪い時など、のろしが使えない場合、代りに鐘や太鼓で知らせる事のできる距離です。須玉町ののろし台の数は県下最多を誇ります。
(看板資料より)

公園の概要
この町は、信州との境を接する交通の要地であったことから、戦国時代には、情報伝達の手段としての「のろし台」が整備され、その数は遺構・復元などを含め約20ヶ所にのぼり、県下随一です。
また周囲には甲斐源氏の祖、新羅三郎義光が住んでいたとされる「若神子城跡」や、1875年に建てられた擬洋風建築の「旧津金学校」(須玉町歴史資料館)、さらに百体余りの石仏を有する古刹・海岸寺など歴史的文化遺産が数多くあります。
自然景観にも優れ、金峰山、本谷川渓谷等は四季折々に様々な表情を創り出し、この豊かな自然に抱かれて、信玄の隠し湯と伝えられる増富温泉や増富金山が静かなたたずまいを見せています。
先人達が育み、築きあげてきた文化に親しみ、誇りのもてる郷土を守り、育て、末永く後世に伝えていくため、この地域を歴史文化公園「のろしの里・すたま」に指定しました。
(看板資料より)


天正壬午の乱と薬研堀の跡

 

天正10年壬午(1582年)3月、新羅三郎義光以来の名門武田氏は信玄没後10年をへずして織田信長により悲劇的な滅亡を遂げた。その信長も6月、本能寺の変で明智光秀に殺された。この為、甲斐の国は、小田原の北条氏直と徳川家康との係争の地となった。この戦いを天正壬午の乱という。
家康は韮崎の新府城に陣し、氏直は若神子に本陣を構え、その時の8月から9月初旬にかけて、この城も修築が行われた。薬研堀は、幅1メートル、深さ1.2メートル、長さ10メートル、発見され、規模と配置から構築途中の段階で放置された、当時のものと推定されています。薬研堀の名は、断面がV字形をした漢方薬の薬種を粉砕する薬研という道具に似ているので、その名がある。戦いは、津金衆、小尾衆など武田の遺臣たちを巧みに保護利用した、家康が大豆生田砦、獅子吼城の戦いで勝利を得た。
(看板資料より)

若神子の七不思議:宿借石

 

 
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