遠山氏の出目については、梶原景時の子孫とも、藤原氏の美濃遠山氏と同族であるともして、諸説粉々として不明である。戦国期になり、和田城主となった遠山遠江守景広の時に、初めて諸古文書中にその名が現われ、当時伊那には松尾小笠原氏、飯田坂西氏、市田松岡氏、知久氏、あるいは関氏、下条氏と各地にその勢力を拡大しようとしていたことであった。
天文13(1544)年、関氏が下条氏によって滅ぼされる頃には、遠山の地にそれぞれ舎弟を配置して領知を治めていた。
天文23年頃、武田氏は伊那に侵入。遠山氏は永禄年間、武田氏に属した。織田の伊那侵入となると、遠山景広は仁科盛信の高遠城に楯籠り、戦死した。
その子景直は信長が本能寺で倒れるや、徳川方につき、遠山全盛時代を迎えた。その子景重は理由は不明であるが衰退し、滅亡してしまった。
和田城はこの三代の居館地で、遠山地方の中心である。当城は和田部落の東盛平山の麓にある竜淵寺境内で、土塁も掘もまったく遺構は見られない。ただ北方に出丸と呼ばれる地名があるだけである。
(日本城郭全集より)
和田城
本城は遠山氏三代の本拠をもった遠山景広が築城した城で西南より南に続く平場で前面は遠山川を見下し伊那山脈の南端をなす。後面は赤石連峰があり四方を山で囲む遠山谷のなかでもっとも広い和田平野の中心に位置している。展望は南西は谷間に開けて十原城、長山城、大町城、満島方面の連山を望み北方は合戸峠を望み盛平山に登ると熊野城、中根城方面、数里離れた程野、地蔵峠を望み遠山領域を一望できる盛平山を背景とした和田城である。
本丸
西より南に麓をめぐる半月形の細長い平坦地で東西12間乃至23間、北は龍渕寺境内にして南西面に広がって背後は盛平山の急傾斜となり南北西の3面は高さ40尺乃至60尺の断崖となっている。
出丸
本丸の北西部に突出て一段低く細長い平場で広さは長さ20間巾約5間北西に突端して出丸の三面は断崖である現在はこだま観音を祀ってある。
城下町
和田城本丸台地の下に展開する平坦地は城下町であった。城下町は和田宿で南は正善寺下方から北は新町山麓まで約4町、東は尾屋敷より遠山川に約3丁の広がりが城下町である。
尾屋敷
城下町東方の山麓、現在老人福祉センター附近の一帯は遠山氏またはその重臣の邸宅地であった。
殿町
殿町平坦な地の中央一帯で現本町裏附近で遠山氏の家臣の住居があった。
桜門前
和田宿現本町新町本町の小池沢を渡って城下にあたる門前に大桜があったので桜門と云ったが城の追手門である。
的場
現在の老人福祉センター裏方の山麓の小池沢附近に的場があった。遠山氏の弓引き場で弓道の鍛錬をした。
物見台
和田城の後にある盛平山の山頂に西約50間南北に30間の小平地で展望が最も良く北は地蔵峠方面、南西は満島方面も見られるが和田城の束は地形的に防備上欠陥があった。遠山氏はこの地に物見の番所を設けた。
高平館跡
和田城の南西の正善寺山麓に東西190間南北15間乃至35間平坦地に高平館があるこの館は遠山景広の甥遠山刑部正善の居館である。
(看板資料より)
遠山郷土館和田城
遠山郷の領主遠山氏は多年居住していた長山城からこの地に移り和田城を築城したのは天文の末(1550)頃のことであった。元和3(1617)年に遠山氏は家督相続のもつれから家督不取締のかどにより改易となり徳川直轄領となったため武家諸法度1国1城令により和田城は廃止された。その後慶安元(1648)年龍渕寺へ朱院地として下附され慶安4年寺の境内地となっていたがこの度この城跡に一般村民が利用する郷土館和田城を建設した。
(看板資料より)
1553(天文22)年 武田信玄に協力を約す。
1568(永禄11)年 武田信玄の家来と兵越峠を越す(道案内)
1571(元亀02)年 武田勢と共に三河に攻め入るを約す。
1572(元亀03)年 武田勢の信濃先方衆として徳川勢と戦い軍糧輸送の大役を果し、さらに奥山氏の久頭合城以南の諸城を陥落する。
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