上田城の歴史
上田城は、真田幸村(信繁)の父、真田昌幸によって天正13(1585)年には一応の完成をみたものと考えられている。この上田城はまもなく、天下にその名を知られるようになった。それは、この上田城に拠った真田氏が二度にわたって徳川の大軍の攻撃を受け、みごとにそれを撃退してしまったからである。
最初の合戦は天正13年に行われた。攻め寄せた徳川勢は七千人余、迎え撃つ真田勢は二千人弱であった。しかし真田氏の巧妙な戦術によって、徳川軍は思わぬ大敗となり死者を千三百人余もだした。これに対し真田方の死者は40人ほどであったという。
二度目の戦いは慶長5(1600)年の関ヶ原合戦に際してのものであった。関ヶ原へ向かう途中、上田へ押し寄せた徳川秀忠軍は三万八千人という大軍。これに対し、昌幸・幸村父子の率いる上田城兵は、わずか二千五百人ほどであった。しかし、このときも徳川勢は上田城を攻めあぐね、この地に数日間も釘づけにされただけに終わり、関ヶ原での決戦に遅れるという大失態を演ずることになる。
上田城はいわば地方の小城であった。石垣も少なく、一見したところ要害堅固な城とも見えない。しかし実際は周囲の河川や城下町を含めた全体が、極めて秀れた構造となっていたことが、現在、学術的研究によって明らかになってきている。全国的に数多い近世城郭の中で二度も実戦を経験し、しかも常にこのような輝かしい戦果をあげた城はほかに見ることはできない。
上田城はその後、徳川軍の手で破却されたが、真田氏にかわって上田城に入った仙石氏によって復興された。(寛永3:1626年)
この時復興された上田城は、真田氏時代そのままであったとみてよく、仙石氏の後、松平氏の世となってもほとんど変化はなかった。
廃藩置県後、明治7年、上田城は民間に払い下げられ、再び廃城となった。
この際、本丸付近を一括して購入した丸山平八郎は明治12年、松平神社(現真田神社)創建にあたり本丸南側の土地を神社用として寄付、ついで明治26年には残りの土地を遊園地用として寄付した。これが上田城跡の公園化への第一歩となった。現在、三ノ丸地域は改変しているが、本丸・二ノ丸には土塁、堀跡などがあり、かつ本丸の三基の隅櫓は昔の姿を留めている。
(看板資料より)
上田城三櫓(南櫓・北櫓・西櫓)
上田城は、真田昌幸によって天正11(1583)年から築城が開始された平城である。城郭自体の規模はさほど大きくはないが、南方は千曲川の分流である。尼ヶ淵に面した断崖に臨み、他の三方は城下町と河川を巧みに配して、周囲一帯を極めて堅固な防御陣地としている。
この上田城の特性は、天正13(1585)年と慶長5(1600)年の2回にわたる徳川氏との合戦の際に遺憾なく発揮され、真田氏と上田城の名は天下に鳴り響いたのである。
しかし、真田氏の上田城は、関ヶ原の合戦後に徹底的に破却され、現存する上田城の隅櫓や石垣は、寛永3〜5年(1626〜28)にかけて、仙石忠政によって新たに築き直されたものである。
仙石氏による上田城再築は、忠政の病死により中絶し、堀や石垣などの普請(土木工事)は完成したものの、櫓や城門を建てる作事(建築工事)は本丸のみの未完成に終わった。本丸には天守は建てられず、7棟の二層隅櫓と2棟の櫓門が建てられたことが、絵図などの記録と発掘調査によって確認されている。上田城は仙石氏の後、松平氏によって受け継がれ明治維新を迎えた。
現存する3棟の隅櫓のうち、本丸西虎口(城郭の出入口)に建つ1棟(西櫓)は、寛永期の建造当初からのものであるが、本丸東虎口の2棟(南櫓、北櫓)は、明治初期に民間へ払い下げられ、市内に移築されていたものを市民の寄付により買い戻し、昭和18〜24年にかけて現在の場所に復元したものである。これら3棟の櫓は、江戸時代初期の貴重な城郭建造物として、昭和34年に長野県宝に指定された。
3櫓の構造形式はいずれも共通で、2層2階、桁行5間、梁間4間の妻入り形式である。屋根は入母屋造りで、本瓦を葺き、外廻りは白漆喰塗籠大壁で、腰下見板張り、内部は白漆喰塗りの真壁となっている。窓は白漆喰塗りの格子窓で、突き上げ板戸が付いている。
尚、本丸東虎口櫓門と袖塀は、明治10年頃に撮影された古写真と、石垣の痕跡、発掘調査の成果などをもとに、平成6年に復元したものである。櫓門と同時に整備された本丸東虎口の土橋には、両側に武者立石段と呼ばれる石積が設けられ、本丸大手口としての格式を示している。
(看板資料より)
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