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愛知県新城市

高森恵光寺快川の墓

2012年05月04日

現地には2つの墓碑があり、左のものは平成9年夏に作られたもので安山岩でできている。右のものは平成のはじめ、付近の田の中から出てきた花崗岩の不思議な石である。長い年月を経て、彫られた文字が消えているにも見え、金子藷山の見た快川の墓ではないか、という地元の説により、二つの墓碑が並びたてられたのである。
文安元(1444)年武田家14代信重は塩山に玉宮神社社殿を造営。同じ頃、玉崎にあった福応寺の住職恵雲御法に帰依し、六男周檜をあたえて弟子とした。その後、周檜は竹森下切に館を構え、領主となり、武芸にすぐれ勢力をのばしていったようだ。そして文明8年に延命禅院を建立している。
勝頼は一万五千を率いて三河に向かった。竹森領主武田宗賢、玄孫父子も家臣を率いて出陣し、鳶ヶ巣山陣地の守備軍として配置されたらしい。陣地は守り易く攻めるに難しいところで武田方本陣の背後を守るとともに長篠城を脅かす重要な拠点であった。
鳶ヶ巣山の守備兵は武田信実以下千名の将士である。その内訳は、竹森領主武田宗賢、玄孫父子以下の将士(推定八十騎)、三枝守友以下の将士(兵力不詳)、その他の小族の将士合計八百騎と名和重行を首領とする浪人衆二百名であった。
一方、連合軍の総大将は徳川家の重臣酒井忠次で兵力は徳川三千、織田千名、合計四千で新兵器の鉄砲を五百丁装備していたといわれている。5月20日夕刻より鳶ヶ巣山に向かって前進したが、険しい山道のため大軍は遅々として進まず、行軍は困難を極めた。夜陰に紛れて武田方の伏兵が攻撃し、本多隊の十数名に重傷を負わせた。
5月21日、武田方は四倍の連合軍と六時間にわたり交戦、ついに衆寡敵せず、主将信実とともに、主従ことごとく死し、竹森武田家は滅びた。
(設楽原戦場考より)

 

 
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