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千葉県木更津市

笹子城


2009年09月20日

笹子城は、真里谷城主であった真里谷信興が支城として文明年間に築いたといわれている。この真里谷氏の内紛で、天文12(1543)年に落城している。この間の事情は『笹子落草子』という戦国時代の戦記物に書かれているが真偽は不明である。その内容はつぎのようなものである。真里谷城主であった真里谷信隆の家臣堀内くによしという人物が、笹子城主である弟の武田三郎信茂を中傷したことに始まる。信茂は謀反を起こす気もなかったが、信隆は非常に立腹して、後藤兵庫助・鶴見五郎ら三十余名に命じて笹子城を急襲させた。このため、信茂は自害した。信隆の没後、鶴見五郎が笹子城を守るようになったが、やがて後藤氏と鶴見氏の間に紛争が起こった。鶴見氏は真里谷大学助信秋らと共に攻撃したが、後藤氏は娘が嫁いだ大多喜城主の武田朝信や相模の北条氏康らに助けを求め、逆に笹子城を包囲している。天文12年のこの攻撃で笹子城は落城し、鶴見氏が自害したことで紛争は終っている。後藤氏は、この笹子城を家来に守らせて中尾城にいた。その後、安房の里見義堯らに攻められて戦死した時、中尾城と共に再び落城して廃城になったという。
(日本城郭大系より)


空掘

笹子城入口付近のお宅の方に行きかたを教えてもらって登って行きました。順路のポイント位置に矢印で示された案内があったので迷わず行けると思いますが、入口から向って左側に進んで行きます。本郭と思われる場所から下に下りるように案内があり、下りてみるとかなり大規模な空掘りがありました。

向って右側の山城

下ってきて車に乗って次の目的地に行こうと準備をしていると、近所の男性(嶋田さん)が訪ねてきてくれました。実は朝一番で笹子城の場所を聞いた人が嶋田さんに連絡してくれたようです。我々が左側から降りてきたのを確認して、実は武田時代の城は向って右側の方であり、嶋田さん宅の庭から登っていくことができるとのことでした。お宅には大変立派な門がありました。また裏山から発掘された武田菱のようなものが掘られた瓦も見せてもらいました。

裏山から発掘された瓦

実際に登ってみるとすぐに八幡大神の祠があり、奥に進むに連れていくつかの郭を確認することができました。一番奥の高いところにあった郭にはテレビアンテナのようなものが設置されていました。確かに嶋田さんのおっしゃっていた通り、右側の山城より左側の方が掘りの規模などが大きく、後の時代になってからのものであるというお話に信憑性を感じることができました。

八幡大神の祠

笹子城に関する同時代資料はいまのところ認められない。唯一戦国末期から近世初頭に著わされたと考えられている。「ささこおちのさうし」(「笹子落草子」『群書類従』合戦部)に当城を巡る攻防が記されている。それによれば、笹子城は真里谷武田氏の一族武田信茂の居城で、天文12(1543)年前後に武田氏の内紛の主要な舞台として登場し、二度落城している。
 また、近年紹介された天保3(1832)年に書かれた『上総日記』(西野元校註)によれば、当時地元では笹子城を「正木大膳の城の跡」と伝承されていた。
 後述するように、発掘調査の成果と城の構造からみて、16世紀中葉までは真里谷武田氏関係の城郭であったが、16世紀後半には里見氏・正木氏関係の城郭として機能していたと考えられるので、『笹子落草子』や『上総日記』の記述は、城主の系統や年代については忠実を反映していると見てよいであろう。
(図説 房総の城郭より)

 

 
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