長野県上田市
霊泉寺の由来 この寺は金剛山波羅密院霊泉寺と称し安和元(968)年鎮守府将軍平維茂朝臣の命により空也上人の開山と伝えれれている。 その後たび重なる兵乱によって寺は衰えたが、弘安元(1278)年、和田前隠岐守朝臣繁有の布金により鎌倉建長寺の末寺として雲峰源興禅師の手によって再建された。やがて戦国時代をむかえ寺は再び衰廃し、永禄年間に武田信玄の助力によって永平寺(曹洞宗)の派に属し、天正2(1574)年谷厳寺(現中野市)の魯庵俊譽和尚を中興の開山とし金巷訓精和尚を第一祖とした。 明治10年11月火災により不明門を残して、仏殿をはじめとする伽藍19棟を焼失し明治44年に現在の本堂が建立された。 阿弥陀如来 正和4(1315)年、繁有の長男隠岐守る平朝臣繁長が仏殿を建立し定朝の作といわれる阿弥陀如来の大像(97cm座像)を安置した。その胎内に仏舎利・仏経・五種の香薬玉・繁長の願文等が納められており、如来像と共に往時を物語る貴重な資料となっている。 不明門 正和4年繁長の布金により建立された仏殿の天井に絵師慶書記の筆による龍の画があり、それが夜な夜な前の門を出て雲霧を起こし荒れるので画龍の天井1枚をはずし門を〆め何人の通用も禁じ不明門と称した。それ以来一度も開けられた事がないという。規模は大きくないが様式手法は室町時代と推定され丸子町文化財に指定されている。 (看板資料より)
五輪塔
この五輪塔は銘によって時代を知ることは出来ないが関東方面に存在する塔婆の曲線の階調を持っていて鎌倉時代の末か室町時代の初期のものである。 (看板資料より)
お寺の人に会うことができ、五輪塔の場所を教えてもらった。歴代住職の墓の間にありました。
霊泉寺大欅 この欅は目の高さの幹の太さ約9.4メートル、樹の高さ約35メートル、枝の広がり南北約30メートル、東西27メートルを測り、当地方で屈指の大木です。 (看板資料より) 臨済宗建長寺直末であったが、永禄年中(1558〜70)に武田信玄により、高井郡赤岩村の曹洞宗谷厳寺の魯庵慶誉を開山に迎え、曹洞宗永平寺派になったという。 (長野県の武田信玄伝説より)