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東京都町田市

大泉寺


昔、父と一緒に一度来たことがあったはずだが記憶にはあまり残っていなかったためか想像していた雰囲気とずいぶん違っていた。小山田氏の本拠地であったところで今は大泉寺というお寺になっている。(昔からあるのかもしれないが…)
畠山重能の兄弟である小山田有重がここを領したのが始まりだそうだ。有重の息子の一人である小山田行重は後に甲斐国の郡内の地を給せられている。

開山堂

小山田高家公顕彰碑

桓武平氏の流れを汲む小山田別当有重、承安元年(1171)この地に城を築いて小山田の庄を領した。源平争乱の時代に小山田一族は源頼朝の家人として活躍し平氏滅亡のあと、建久元年(1190)頼朝初の京都入洛に際して、有重の子三郎重成、四郎重朝、五郎行重は、畠山重忠らとともに先陣の隋兵として従った。頼朝亡き後北条時政の誹りを受け、元久2年(1205)三郎重成、四郎重朝とその子等は将軍実朝により二俣川において謀殺された。ここに小山田一族は離散した。
元弘3年(1333)小山田一族の裔小山田太郎高家が新田義貞の侍大将として登場。小山田城を固守していた北条泰家の軍を追って鎌倉に攻め入り、北条一族を討滅した。ここに建武中興成る。その後足利尊氏が叛くに及んで高家は湊川の合戦に奮戦の折、主君義貞は生田の森で足利軍の矢ぶすまに立ちつくすを見て、高家おのれの馬に乗せ奉りで主君の危急を救い、自らは処女塚で壮烈な戦死を遂げる。時に延元元年(1336)5月25日と太平記は記している。
小山田城址と伝えられる大泉寺境内の西北の山腹に三基の塔があるが、有重、行重、高家3人の供養塔といわれている。梵字の彫刻も苔むして定かではないため塔のたたずまいは小山田の風土と永い歴史を我々に語りかけてやまない。然し今日開発の波は怒涛の如く、由緒あるこの城址に逼りつつある時、ここに美しい風土に秘められた歴史の跡を偲び、併せて小山田高家公及び小山田一族の名声を末永く顕彰するためこの碑を建立する。
(小山田高家公顕彰碑より)

丘の中腹にある供養塔

小山田城址

 
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