大多喜城 |
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大多喜城の歴史 |
土塁
土塁は堀と共に城を守る大切な備えです。土塁は堀と組合せて作られ、堀を堀り上げた土で土塁を作る方法がとられています。土塁は城内が見えないように作られていました。勾配は敵が入りにくいように城の外側を急勾配に作ります。大多喜城ではこの本丸跡の周囲に土塁が見られます。 |
石垣
日本で最初の本格的な石垣造りの城は安土城で、それ以降、大名が城造りで最も力を入れるのが石垣造りです。石は一般的に安山岩・花崗岩・片麻岩が多く使われ、近くに良質な石がない場合は遠くから運んで造りました。石の積み方は、野面積み・打ち込みはぎ・切り込みはぎの三種類に大きく分けられます。当博物館の石垣は、野面積みと打ち込みはぎの中間の方法で造られています。 |
空掘
城には敵が攻めにくいように堀を作りました。堀のなかでも水のないものを空掘といいます。山城の堀は空掘が多く、平城は低い所に作られているためほとんどが水堀でした。 |
大多喜水道
城下町大多喜は、昔から良い飲み水に恵まれず、人々の苦労は絶えませんでした。最後の城主である松平(大河内)正質の頃ようやく水道の工事が具体化し、明治2(1869)年月に工事を始め、翌明治3年5月に完成しました。この水道によって、城下200戸が潤い、20ヘクタールの水田の灌漑が行われました。 当城は江戸時代に著された軍記物(『房総治乱記』など)によると、初めに築城したのは上総武田氏で、大永元(1521)年頃築城したといわれている。上総武田氏は、甲斐守護武田信満の子信長を祖とする。同氏は、鎌倉公方足利成氏の近臣として上総に入部し、真里谷城や長南城を拠点にして勢力を拡大していった。その子孫は上総国内の要所に城を築き、やがて上総一国をほぼ手中にし、当城もその拠点の一つとなった。当城に拠る武田氏は房総正木氏と抗争を続けていたが、天文13(1544)年に苅谷ヶ原(夷隅町苅谷)の戦いで正木氏に敗れると、正木時茂が当城に入城したという。 大多喜城と上総武田氏の関係について少し補足します。今回訪れた大多喜城と上総武田氏とは直接関係することはなさそうです。日本城郭大系によれば、上総武田氏の一族である真里谷城主武田信興は里見氏の上総夷隅侵略に備えて、次男の武田信清をして夷隅郡小田喜郷に大多喜根古屋城を築きました。
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