大沼城は、文明年間(戦国時代初期)に木村東見入道安信が築いたとされる山城で、足助の真弓山城(足助城)や、近くの田代城などとともに足助七城のひとつに数えられていました。
遺構は、本曲輪と10ヶ所余の曲輪のほか、土塁、堀切、井戸跡などが、掘切を境としてかぎの手状に分布しています。
初代城主木村安信は信仰厚く、城の西麓に入宝山神宮寺を建てた後、天文2(1533)年に死去しました。2代新九郎信元のとき、天正2(1574)年4月<元亀2年とする説もある>、大沼城は甲斐の武田軍によって攻め落とされ、信元も討ち死にしました。
そして天正3(1575)年には、信元の養子松平親清(大給城主松平乗元の二男)が大沼城主となりました。親清は入宝山神宮寺を八沢山洞樹院と改めて菩提寺としました。親清の没後、天正11(1583)年嫡子の近正が後を継ぎ、徳川家康の旗下で軍功をたてました。そして天正18(1590)年家康の関東移封後、上州三の倉(群馬県)に5千石を賜って三河を離れました。大沼城はそのころ廃城になったと考えられています。
(看板資料より) |