長谷寺で、近くに大林勘左衛門貞次屋敷跡があるとのことでしたので行ってみることにしました。特別に何かが残っていたわけではなく、牛久保城の古い絵図をもとにしてだいたいここらへんにあったのではないかと推測した場所であるとのことでした。
青年期の勘助 牛久保で過す。
「三州牛久保より出申候山本勘助先祖之覚」「牛久保密談記」と「甲斐国志」では、勘助の出生地を異にしていますが、年齢の差はあるものの、三河牛久保の牧野家家臣である大林勘左衛門の養子になることが記されています。このことは「甲陽軍鑑」にある「三州うしくぼ侍」の記述とも符合するため、勘助は青年期を牛久保で過したといえそうです。光輝院(豊川市光輝町)所蔵の「牛久保城下の古図」は、牛久保城と周辺の寺社・屋敷地を描いたものですが、この図の中に「大林勘左衛門 山本勘助養父」と記された屋敷跡があります。勘助と牛久保とのかかわりを具体的に示す史料はこの古図の他には知られないため、貴重な史料といえるでしょう。また長谷寺(豊川市牛久保町)には勘助の遺髪塚や念持仏という「木造摩利支天騎像」などがあり、牛久保の地が勘助ゆかりの地であることを今に伝えています。
(長谷寺資料より)
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