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新潟県長岡市

鬼小島弥太郎戦死の地

2007年11月24日

親戚の家で見せてもらった栃尾の史跡の本で栃尾に鬼小島弥太郎戦死の地というのがあるということを知りました。昼にラーメン屋で入手した「上杉謙信公ゆかりの史跡」というパンフレットによると、(おおの苑)と書かれていました。おおの苑というのが何なのか分からなかったので後回しにしておいて最後に行きました。地図に書かれた場所に行ってみると、おおの苑というのはデイサービスセンターでした。入口から入って事務所にいた人にパンフレットを見せて鬼小島弥太郎戦死の地がどこにあるのか聞いてみたところ、すぐに分かったようで、親切にその場所まで連れて行ってくれました。雨が降ってきていたので傘まで貸してくれました。ちょうどおおの苑の裏庭のところで、立派な案内板とともに向って左から米山薬師社の石碑、祠が3つあって、一番右側に昨晩見た栃尾の史跡を案内している本に載っていたものと同じ石碑がありました。デイサービスセンターの人と一緒になんて書いてあるのか読んでみましたが私にも良く分かりませんでした。彼女の話ではよく人が訪ねてくるとのことでした。

鬼小島弥太郎貞弘は背丈6尺2寸(186センチ)で、その力は三十人力であったといわれ、その豪勇の故に鬼の一字が付けられたといわれています。
弥太郎17歳の時、見出されて景虎の家来となり、槍の名手として活躍しました。
永禄3年正月の刈谷田川合戦の折には、三条方の広瀬十郎と一騎打ちを行い、これを討ち、味方を大勝に導きました。
しかし帰陣の途中ここ天神橋で広瀬十郎の子二人の不意打ちにあい、おどりかかる広瀬兄弟を斬り伏せたものの、深傷のため割腹して果てました。
(看板資料より)

 

 
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