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山梨県身延町

伝・飯富兵部の墓

2010年03月22日

古屋弥右衛門昌時の供養塔 宝篋印塔
飯富兵部少輔虎昌の遺子古屋弥右衛門昌時(坊磨呂)の供養塔。土中に埋没していたものを再築保存した。
(看板資料より)

今回飯富に飯富兵部の墓があるという情報をメールで頂き早速訪問しました。メールを頂いた方が祖父母やお父様から聞いた話によると、飯富には飯富兵部の屋敷があり、飯富兵部が留守のときにも、御家来衆が「烏森(からすもり)」という狼煙台を守っていたとのことでした。屋敷の敷地は広くすぐ前には富士川が流れていて、江戸時代にはこの飯富集落の近くに船着場があって、塩を甲府盆地へ運ぶ船でたいそう賑わったとのことでした。
永久寺の裏手にお寺の墓地があり、この一帯が飯富兵部の屋敷跡地だそうです。また、ここが飯富兵部の屋敷の敷地の北の端で、本当はもっと川の近くにお墓があったとのことで、富士川の水害で何度か流れてしまい、そのたびに石塔を探しては、元の通りに組み上げたとのことでした(上の写真一番右の宝篋印塔)。
元の墓地の場所には、飯富兵部の遺品(遺髪ともいいます)を埋めてあったとのことでした。今ではその場所がどこだったかはわからないそうです。
石塔の上下の順番が正しいものと違っているのは「無念で亡くなった」という意味を表しているとのことで、このようにしておくと亡くなった飯富兵部のたたりを防ぐことができるという言い伝えがあるのだそうです。
飯富兵部の家系は、京都のお寺に預けられていた末の子供が、飯富という姓を捨てることで続くことが許されたそうで、現在も古屋という子孫の方がおられるとのことです。
また現地の看板では向って一番右にあるのが「古屋坊麻呂の供養塔」となっていますが、「古屋坊麻呂の(父・飯富兵部のために建立した)供養塔」ということで伝わっているとのことでした。
また、一番左にある大きな石のお墓が、坊麻呂(古屋弥右衛門昌時)のものとして語り継がれているのだそうです。こちらの墓石は風化が激しく文字を読み取ることは困難でした。

 

 
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