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長野県長野市

昌龍寺


2007年05月20日

昌龍寺に大日方直長の墓があるとのことで立ち寄りました。大日方は「おびなた」と読むそうです。お寺の正面に向って右側に塔のような面白い建物がありました。これは鐘楼とのことでしたが資料が残っていないため詳細なことは不明とのことでした。佐久間象山に係わるものであるとの説もあるとのことでした。お墓の場所が分からなかったので本堂に行ってベルを鳴らしてみたところ、婦人が出てきてくれて丁寧に対応してくれました。大日方直長の墓の場所を尋ねたところそこまで連れて行ってくれました。以前は別の場所にあったものを住職の墓とともに改葬したのだそうです。ここでは「おびなたさん」と呼ばれているのだそうです。

大日方直長の墓

当寺開創は、天正5(1577)年で、開基された人は、水内郡小川の大日方佐渡守直長である。直長は天文・弘治(1553〜1557)の頃、武田晴信に仕えた大日方一族で、安曇郡の千見城を守っていたが、当時の戦功によって広田砦を守り居た。
開山は佐久郡岩村田、龍雲寺第3世賤庵順貴和尚である。直長は千見城主であったため、その子山城守直家が当広田に在って父の意を継ぎ当寺創建に尽力された。大日方家は武田氏に属していたので、武田氏が帰依深かった龍雲寺の順貴和尚を初代住職に請したのである。天正15(1587)年10月12日順貴和尚当寺にて示寂され当寺に埋葬安位さる。現存の墓は、文化8(1811)年9世吟松和尚代に補修再建されたものである。開基大日方直長、天正12年9月9日没し、当寺に葬る。その法名「光陽院殿虎岳昌龍大居士」と称す。その墓は開山と並んで建立されているが、四面摩滅して文字等判明されない。
安永3(1774)年8世淳志玄鏡和尚、並9世條風和尚代に境内地の整備と諸堂の再建が行なわれた。現寺地は往時の広田館跡で、近時人家の接近により形成南寄りに縮小され、往時とは異なっているが、明治初年の村誌に、寺地東西80間(144.8m)、南北90間(163m)あったと記されている。又近刊された更級埴科地方誌にも当寺の記事が記述されている。
開基大日方家は現水内郡小川村小根山に現存され昭和52年9月当寺開創400年法要には現当主文彦氏(第17世)は焼香に来山された。
(パンフレット記載文章より)

 

 
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