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群馬県みなかみ町

名胡桃

2013年01月12日

南に赤城山、北に谷川連峰、東西を山に囲まれたこの利根・沼田地方は、鎌倉時代より戦国時代にかけて沼田氏が支配していた。沼田氏の全盛期には一族や重臣たちを各地に配して勢力の拡大を図った。名胡桃氏・小川氏・石倉氏・川田氏らである。
戦国時代の天文の頃、小田原の北条氏が赤城山を越えて利根に進行し、沼田氏を追放して利根沼田一帯は北条氏の支配となった。
永禄3(1560)年越後から上杉謙信が三国峠を越えて進出し、名胡桃城をはじめ山城や砦を攻略し、北条氏の城となっていた沼田城を手中にし、更に前橋・武蔵へと進み北条氏と対峙した。
上杉謙信の利根沼田地方の支配は10年余も続いたが、天正6(1578)年謙信が春日山城内で急死すると、北条氏は沼田に進攻し再び北条氏の支配となった。
謙信の没した翌天正7年から8年にかけて、武田勝頼の命を受けた真田昌幸が信州から吾妻の岩櫃城、利根に入って名胡桃城を始め他の山城や砦を攻略して天正8年念願としていた沼田城を調略した。その後沼田城をめぐって真田氏と北条氏の間で攻防が続いた。
この頃全国統一に向かって歩みを固めていた秀吉は北条氏に対して上洛を促していたが、北条氏は上洛の条件として、真田領となっている利根・吾妻の二郡を北条領として欲しいと要求した。秀吉は昌幸に北条の条件を示したが、昌幸は沼田城は渡しても名胡桃城は渡すことはできないと答えた。天正17(1589)年7月利根川の東と赤谷川の左岸を限って北条領、西は真田領と秀吉の裁定が決まった。しかし北条氏の沼田城代となった猪俣邦憲は名胡桃城を不法にも攻略してしまった。
この事件を知った秀吉は激怒し、大名間の私闘を禁じた惣無事令に反するとして、天正17年11月北条氏に対して戦いを宣し、秀吉は全国の大名に命じて小田原攻めを開始した。北条氏は数ヶ月の籠城後天正18年7月5日、秀吉の前に降伏した。5代、100年にわたって関東に覇を唱えた北条氏であったが、この名胡桃城事件が直接の原因となって北条氏は滅亡し、100年余続いた戦国時代に終わりを告げた。
(看板資料より)

物見曲輪

名胡桃城の築城について
この城は利根川・赤谷川の合流地点の南西の右岸の段丘上に築城されている。城の説明図にある般若郭に古い居館の址が発掘によって明らかになり、掘っ建て柱による建物20ヶ所が確認された。この居館址は名胡桃氏の居館であったと推定される。
名胡桃城は天正7年利根に進攻した真田昌幸によって現在の城址に築城されたものである。
平成4年に始まった名胡桃城の発掘調査によって各郭の周囲には2メートル余の土塁が築かれていることが確認された。この城は真田昌幸が沼田城を攻略する拠点として築いたものであるが、天正18年北条氏の滅亡後廃城となり、長い年月の間には土塁は壊され畑として利用されてきた。
大正13年名胡桃城址保存会が地元の有志によって設立され、本丸址に徳富蘇峰の書になる「名胡桃城址之碑」が建立された。
(看板資料より)

本郭の中央には徳富蘇峰による「名胡桃城址之碑」が建っています。発掘調査によって現在の堀切り土橋は後世に築かれたもので、木橋の柱穴が確認されました。
ささ郭の両側には腰石垣を伴う土塁が残り、先端の搦め手に当たる箇所には、礎石による門跡が確認されました。
(看板資料より)

郭全体を土塁で囲い、平行に溝を掘った道路が中央を縦走し、その両端には門礎石と櫓建物跡が、郭内には複雑な構造を持った堀立柱建物跡群や柵塀跡などが確認されました。
隣接する郭の堀切りは当初の土橋を木橋に架け替え、門を隔てた外側から通路をカギ形に折るといった防御態勢の特徴がみられます。
(看板資料より)

三郭では外郭方向に土塁を築き、二郭へ渡る木橋の前面には三日月堀が確認され、侵入しづらくなっています。この堀が埋まった後には、堀立柱建物跡を伴う溝状遺構が造られています。
また、三郭の南前面には、後の時期に造られたのではないかと思われる変形の丸馬出しがみられ、外郭との間を連結しています。
(看板資料より)

郭の周囲は柵で囲まれていたと考えられる溝状遺構が廻り、その中を道路、主家・副家がセットになった堀立柱建物群が4ブロック確認されています。
また、ここにはあまり防御施設がみられず他の郭と様相が異なることから、戦闘を意識するというより、むしろ日常生活空間として捉えることができます。
(看板資料より)

 



2005年04月30日

名胡桃城の由来
明応元(1492)年頃、沼田城主沼田景久は、その子息を名胡桃・小川・川田・石墨の各地に配し領地拡大を図ったが、まだこの地に城郭は築かれていなかった。16世紀半ばになり、利根沼田地方は上杉氏・北条氏等入り乱れ、戦乱の渦中にあった。天正6(1578)年に沼田城が北条氏の手に落ちたことにより、利根川左岸は同氏の勢力圏となった。これに対して上杉・武田方の真田昌幸は、渡河点警護と沼田城奪取の前線基地として、利根川右岸にこの城を始め諸城を築城したものと思われる。また、この城の城代は鈴木主水重則であった。
天正7(1579)年に、北条勢は二度に渡りこの城等を攻めたが、いずれも敗退している。しかし、その翌年真田勢はこの城から攻め出して、難無く沼田城等を攻略している。その後、当地方の大部分を真田領としてほぼ手中に収め、この城は岩櫃城と沼田城の中継地となっていた。また、天正14〜16(1586〜1588)年の間、この城とその南側の山頂にある北条方の権現山(榛名峠)城は再三再四対立していて戦闘が絶えなかった。
天正17(1589)年に、豊臣秀吉は北条氏の上洛の条件として、真田氏に替地をあてて沼田城等やその一帯の領地を北条氏へ渡したが、なぜかこの城だけは真田氏の要望によりその所領として残された。北条方の猪俣邦憲等はこれを不満として同年11月にこの城を攻略した。たばかられた鈴木主水は、沼田において自害している。豊臣秀吉はこの報を受け激怒して、以前からの不信の念と相まって北条氏に宣戦、その翌年同氏を攻め滅ぼした。
この事件に関しては問題が複雑であるが、いずれにしてもこの城は、豊臣氏に天下統一をもたらし、当地方における乱世に終止符を打つことになった、小田原征伐勃発の口火を切ったことにより、記念すべき重要なものである。その後、当地方一帯は真田領としてその支配下にあったが、真田氏の沼田城安泰により、この城は廃城になったものと考えられる。
(看板資料より)

名胡桃城の概要
この城は、利根川・赤谷川の合流点の南西段丘上に位置した崖端城であり、河川との比高は50メートルである。両側が断崖で尖鋭に突出する尾根を掘り切った尾根式山城の様相をもつ並郭式構造を呈していて、その南西方向には平城部が続いている。またこの城の南1kmには190m高く富士山(天狗山)があり、のろし台として抑えられていたと思われる。
当時の建物は、北条氏の文献に「百姓屋敷」とあるように、他の戦国時代城館址における戦略上拠点と同様、粗末な掘っ立て小屋があったと思われる。大正13年、本丸の中央に徳富蘇峰書による石碑が建立されており、この城は地元の名胡桃城址保存会により管理保護されている。
(看板資料より)

三の丸虎口

名胡桃城は国号17号線で分断されていました。もっと山の中の物凄く秘境の地にあるような城を想像していたのですが、思ったより普通のお城でした。国道17号線で分断されているくらいですから見学するのもそんなに体力を要しません。東京から新潟方面に向って国道17号線の右側に駐車スペースがあり、そこから奥に向って、三の丸、二の丸堀、二の丸、本丸堀、本丸、ささ曲輪、袖曲輪と続きます。非常にきれいに整備されていて写真のように案内の石板も設置されていました。国道17号線の左側は人家などがあってすっかり様子が分からなくなっていたのが残念でした。

二の丸堀

二の丸跡

本丸堀

ささ曲輪

袖曲輪

 
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