長久保城の起源は、鎌倉時代初期に竹の下孫八左衛門が長久保の地に砦を築いたのがはじめであるといわれている。竹の下孫八左衛門頼忠は、藤原家一門の出で、足柄の竹の下を根拠としていた。伊豆国や大岡庄の北条氏や牧氏の侵略を阻止するため、この地に砦を築き、前進防衛基地としていたもので、これが長久保城の素形である。
降って室町時代になると、今川氏により長久保城が構築され、下長窪付近は東駿地方の一拠点となった。その後、東隣の北条氏や甲斐の武田氏の手中に帰し、また武田氏滅亡後は徳川氏に、そして豊臣氏の天下統一後は中村氏にと、次々に支配者が変わっていった。そして、慶長5(1600)年関ヶ原の戦後、中村氏が伯耆国へ転封された後、長久保城は廃城となった。
長久保城にまつわる華やかな歴史の一齣が伝えられている。織田信長亡き後天下統一の事業を進めていた豊臣秀吉は天正18(1590)年、最後まで屈服しなかった小田原の北条氏を攻撃した。その際、小田原城の前衛基地であった山中城攻撃の前進基地となったのが長久保城である。天正18年3月1日、京都を発した秀吉は27日には沼津三枚橋城に到着した。これより先、徳川家康は長久保城に入城して秀吉の来着を待った。秀吉はこの長久保城で家康とともに進攻の軍議を練ったといわれている。
(看板資料より)
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