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長野県長野市

幕張の杉


2008年12月29日

「幕張の杉」由来
永禄4(1561)年9月、大激戦といわれた川中島合戦を前に、この地の用水管理支配をしていた青木家当主次左衛門は、川中島西部六ヶ村(中氷鉋・上氷鉋・戸部・今井・今里・岡田)の代表を伴い信玄・謙信両将に、耕地・人家に戦禍の及ばぬようにと決死の覚悟で申し入れました。
農民達の切なる願いに両将も心を動かされこれを諒承したといいます。この時次左衛門は、自邸(通称「堀之内」)東側の二本の杉に幕を張り戦場との境界の標としました。
激戦となった9月10日、約束は固く守られこれより西方へは一兵の侵入もなかったと伝えられています。以降幕を張ったことからこの杉を「幕張の杉」と呼ぶようになりました。合戦当時の杉は老木となり終戦間もなく伐採されました。
合戦より420年を経た昭和56年、屋敷内の杉を1代目と定め、青木家同族により「幕張の杉記念碑」が建立されました。その後2代目「幕張の杉」も平成10年9月の7号台風の被害で倒れてしまい、残念ながら現在その姿はありません。
しかし必死に田畑を守ろうとした先人の努力と勇気ある行動は永く後世に語り継いでいきたいものです。
(看板資料より)

2007年5月に長野に来た時に幕張の杉を探したのですが結局見つけることができずに帰ったのでした。その後、昌龍寺の方から電話を頂き確かに幕張の杉というものはあるというお話を聞かせてもらっていました。そして今回いい機会だったので探してみることにしたのです。手がかりは以前も探した下氷鉋の交差点周辺です。1軒ずつお宅を訪問して廻りました。3軒目でやっとお話を聞かせてもらうことができ、ご丁寧に現地までの地図も書いてもらいました。ここでお話を聞くまで私はこの幕張の杉というのは武田か上杉の陣幕を張った所なのかなぁと思っていたのですが、全然違っていたことを知りました。地元川中島の農民が勇気を振り絞って信玄公と謙信公に戦禍が及ばないように嘆願してその目印として幕を張ったところだったのです。お話をして頂いた方もその関係者の子孫の方だったと思いますが、武田でも上杉でもない地元の人たちの子孫の方のお話を聞くことができて大変良かったと思います。

 

 
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