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山梨県山梨市

大翁寺

2014年07月12日

栗原氏と栗原氏屋敷跡について
栗原氏の発祥は清和源氏武田氏から分流した親族であり、武田の祖信義から7代の孫甲斐守護職武田刑部大輔信成の子、武田十郎武続が東郡栗原郷を領して栗原を称したことから始まっています。栗原氏の系譜を武田系図その他は次ぎの通り記しています。
武田刑部大輔信成--栗原甲斐守武続--出羽守信通--出羽守信明--民部少輔信遠--伊豆守信友--伊豆守信重--信方(半五郎)--伊豆信頼--日向守政長--大学助忠重-
栗原一族は東郡の雄として栗原郷を中心に強大な勢力圏を築きました。
戦国時代になり、甲斐守護職を継いだ武田信虎が、武田家の総領職の名にかけて甲斐一国の統一を果そうとする領国経営に反発した栗原信友等は大井・逸見(今井)氏と計って蜂起し激しく抵抗しましたが、次々に鎮圧され以降、一族は武田氏に臣従しました。「甲陽軍鑑」によると武田氏に臣従後、信虎・信玄に仕えて武将として活躍したのは、伊豆守信友・左衛門佐昌清(二百騎の将)、その子左兵衛尉詮冬(百騎の将)等がありました。
栗原氏の屋敷は、下栗原の栗原山大翁寺境内を中心とした地域を、代々の居館とし近接する海島寺・妙善寺・大法寺の境内も含む広大なものであったと見られています。
屋敷を囲む土塁の一部が北側の墓地の中や竹林の中に残って居り、往時を偲ぶことができます。
(看板資料より)

 



2007年12月01日

栗原氏と栗原氏屋敷跡について
栗原氏の発祥は清和源氏武田氏から分流した親族であり、武田の祖信義から7代の孫甲斐守護職武田刑部大輔信成の子、武田十郎武続が東郡栗原郷を領して栗原を称したことから始まっています。栗原氏の系譜を武田系図その他は次ぎの通り記しています。
武田刑部大輔信成--栗原甲斐守武続--出羽守信通--出羽守信明--民部少輔信遠--伊豆守信友--伊豆守信重--信方(半五郎)--伊豆信頼--日向守政長--大学助忠重-
栗原一族は東郡の雄として栗原郷を中心に強大な勢力圏を築きました。
戦国時代になり、甲斐守護職を継いだ武田信虎が、武田家の総領職の名にかけて甲斐一国の統一を果そうとする領国経営に反発した栗原信友等は大井・逸見(今井)氏と計って蜂起し激しく抵抗しましたが、次々に鎮圧され以降、一族は武田氏に臣従しました。「甲陽軍鑑」によると武田氏に臣従後、信虎・信玄に仕えて武将として活躍したのは、伊豆守信友・左衛門佐昌清(二百騎の将)、その子左兵衛尉詮冬(百騎の将)等がありました。
栗原氏の屋敷は、下栗原の栗原山大翁寺境内を中心とした地域を、代々の居館とし近接する海島寺・妙善寺・大法寺の境内も含む広大なものであったと見られています。
屋敷を囲む土塁の一部が北側の墓地の中や竹林の中に残って居り、往時を偲ぶことができます。
(看板資料より)

大翁寺は栗原氏が開基であるとのことで立ち寄りました。本堂は真新しい小さなものでしたが、入口に詳しく書かれた説明があってこれによると、栗原氏の館は大翁寺を中心とした場所にあったとのことで土塁の一部が残っているとのことでした。中に入って行くと子供が沢山いて遊んでいました。ご婦人がいたので土塁のことを聞いてみると、本堂の左奥の畑の更に奥の林の中に残っているとのことでした。そこまで行ってみようかと思ったのですが畑の中を歩いていくのも悪いので断念しました。

 


養安寺

 

 
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