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長野県塩尻市

首塚・胴塚

2014年05月24日

首塚

首塚・胴塚の由来
今を遡る事、434年前、歴史上戦国時代と言われる天文17年7月19日甲斐の武田信玄軍と松本林城主小笠原長時軍とが永井坂において交戦し数時間に及ぶ激戦の末、戦いは小笠原軍の破れる所となり多くの戦死者を残して退却をした。
武田軍は家臣の戦功を賞する為、首実験を行った後、戦死者の遺体を放置したまま引き上げて行ったので、柿沢の村人はこれを哀れに思い、ここに埋葬したのがこれら首塚胴塚である。
その後、戦国時代も終り、世は豊臣・徳川の時代となり平和が続くにつれて何時しかこれらの塚の所在も忘れられて長い間訪ね弔う人もなく、塚は夏草の生い茂るに任せる惨めな状態にあった。
昭和10年に至り柿沢の熊谷善蔵氏はこの有様に大いに無情を感じられて多くの有志者と共に寄付金を集め小笠原氏支流の末裔である小笠原長生子爵の揮毫を得て首塚・胴塚の碑を建立し哀れな戦死者の追善供養を行い冥福を祈ったのであります。
御来訪の方々におかれましても、この悲惨な戦死者にご同情下され、一掬の涙と共にその亡き御霊のご冥福をお祈り下さい。
(石碑記載文章より)

胴塚



2004年06月19日

首塚・胴塚の由来
今を遡る事、434年前、歴史上戦国時代と言われる天文17年7月19日甲斐の武田信玄軍と松本林城主小笠原長時軍とが永井坂において交戦し数時間に及ぶ激戦の末、戦いは小笠原軍の破れる所となり多くの戦死者を残して退却をした。
武田軍は家臣の戦功を賞する為、首実験を行った後、戦死者の遺体を放置したまま引き上げて行ったので、柿沢の村人はこれを哀れに思い、ここに埋葬したのがこれら首塚胴塚である。
その後、戦国時代も終り、世は豊臣・徳川の時代となり平和が続くにつれて何時しかこれらの塚の所在も忘れられて長い間訪ね弔う人もなく、塚は夏草の生い茂るに任せる惨めな状態にあった。
昭和10年に至り柿沢の熊谷善蔵氏はこの有様に大いに無情を感じられて多くの有志者と共に寄付金を集め小笠原氏支流の末裔である小笠原長生子爵の揮毫を得て首塚・胴塚の碑を建立し哀れな戦死者の追善供養を行い冥福を祈ったのであります。
御来訪の方々におかれましても、この悲惨な戦死者にご同情下され、一掬の涙と共にその亡き御霊のご冥福をお祈り下さい。
(石碑記載文章より)


新田次郎の小説「武田信玄」の塩尻峠の合戦の最後のところに、「塩尻峠を西側に下ったところの柿沢の宿の塚本屋が今もなお、この戦いに倒れた戦死者の塚を守っている」と記載されていますが、その塚がこの首塚・胴塚のことなのだそうです。旧中山道を岡谷から塩尻に下って行って長野自動車道を通り過ぎて少し行くと、「首塚・胴塚」の看板が出てくるのでそれに従って行けばたどり着くことができます。旧中山道沿いではなく畑の中にあるので少し分かりづらいです。近所に公民館があるのでそこで聞くといいかもしれません。


塩尻峠・勝弦峠
長井坂戦跡

 

 
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