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長野県松本市

桐原城

2014年05月25日

本郭

桐原城は入山辺桐原の海岸寺沢と追倉沢に挟まれた尾根の中腹にあり、「信府統記」によれば寛正元(1460)年に築かれた桐原大内蔵真智の居城で、真実、真貞、真基の四代に渡って相伝されたという。桐原の地は、古代には後院領の桐原牧が置かれたところで、桐原氏は荘園と化した桐原庄を治めた在地の荘官が土着したものと考えられる。城の東側の海岸寺沿いには、松本平最古の木造彫刻である千手観音立像(長野県宝)を伝える旧海岸寺がある。
桐原城に関しては、複数の絵図が残されている。松本市立博物館が所蔵する「桐原城古図」は、おそらく江戸時代の山論の資料として筆写されたものであろうが、麓に桐原氏の居館と思われる「御屋鋪」と記された桝形を備えた石囲いが描かれている。
主郭の規模は、東西約29メートル、南北約27メートルで、周囲を鉢巻状の石積みで補強した土塁で防御し、主郭背後は四重の堀切で固めている。正面に当たる東側の郭にも石積みが多用され、西側山麓には菩提寺と見られる蓮法寺跡があり、ここにも郭周辺と同時期のものと推定される高さ2メートルに及ぶ石積みが残されている。
桐原城は、天文19(1550)年7月15日、武田氏が府中に攻め込んだ際、林大城とともに自落したと伝えられる。現在残る石積みを多用した城郭遺構は武田氏滅亡後に改修されたものと考えられる。
桐原城跡は、長野県を代表する山城として昭和55年に、小笠原氏城跡(林大城、同小城、埴原城)に、山家城とともに追加指定されている。
(看板資料より)

本郭

桐原城は追倉沢と海岸寺沢に挟まれた山の中腹にあり、現在の登口も両沢側から整備されている。信濃国守護小笠原氏の幕下で、桐原の地を領した桐原氏の主城として築かれ、寛正の頃(1460〜)から桐原氏五代に渡って相伝したといわれており、慶長4(1599)年の絵図によると山の麓に桐原氏の居館があったという。
天文19(1550)年7月15日、武田軍の林大城攻撃の際、大城と共に自落した。
主郭の規模は、東西約29メートル、南北約27メートルで周囲に土塁・石垣等の遺構が残っており、往時の姿を偲ぶことができる。
小笠原氏防御線の一連の城塞として、山辺谷の入口を防御する重要な位置にあった。
城の構築は小規模ではあるが複雑で長年に渡って使用された例として歴史的価値も高い。
(看板資料より)


本郭周辺の石積み

本郭周辺の石積み


土塁と堀切

室町時代にかけて、信濃国守護として君臨した小笠原氏の幕下で、桐原の地を領した桐原氏が林城の支城として構築し、寛正年代(1460〜)から桐原氏5代に渡って相伝したといわれるが、天文19(1550)年林城落城と共に落城し、その後廃城とされた。主郭部には、土居、石垣、空壕等の遺構があり、往時の姿を偲ぶことができる。
林城の支城として小笠原氏防衛線の一連の城砦として、山辺谷の入口を防衛する重要な位置にあった。城の構造は小規模ではあるが、複雑で長年月に渡って使用された例として歴史的価値も高い。
(看板資料より)

石積み

二重堀切


石積みされた郭

副郭の虎口

副郭の石積み

副郭の石積み

副郭の石積み

空掘



2004年06月19日

室町時代にかけて、信濃国守護として君臨した小笠原氏の幕下で、桐原の地を領した桐原氏が林城の支城として構築し、寛正年代(1460〜)から桐原氏5代に渡って相伝したといわれるが、天文19(1550)年林城落城と共に落城し、その後廃城とされた。主郭部には、土居、石垣、空壕等の遺構があり、往時の姿を偲ぶことができる。
林城の支城として小笠原氏防衛線の一連の城砦として、山辺谷の入口を防衛する重要な位置にあった。城の構造は小規模ではあるが、複雑で長年月に渡って使用された例として歴史的価値も高い。
(看板資料より)

桐原城の案内板があるところから車で行かれるところまで行き、通行止めの看板のところで車を置いてそこからは歩いて登りました。荒れた道路に沿って登って行きましたが途中河原あたりで道が分からなくなり、直前に山家城で道に迷って大変な思いをしたばかりだったので無理をせずに下山しました。また違う季節に訪れてみたいと思います。

 

 
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