葛山館跡は、12世紀前半(平安時代)から16世紀後半(室町時代)にかけ、東駿一帯に勢力を振るっていた葛山氏が平時居住していた館を構えた地である。
館跡は、東西約97メートル、南北約104メートルで約1万平方メートルの規模があり、東西と北に土塁が残存している。土塁規模は馬踏幅約1.2メートル、高さ約3.5メートル、底敷幅約10メートルほどある。
出入口は現在三ヶ所あるが、北東隅と西側北の二ヶ所は後世の間口といわれ、西側南の開口部が門址とされる。
この館跡の西隣に接続して半田屋敷、荻田屋敷と、その北西に岡村屋敷があり、葛山館と重臣屋敷は、総体的に複濠複郭式の館を構成している。
このうち半田屋敷北側には、今も土塁址が残存している。また、北側と東側には土塁に沿って濠があったが、埋め立てられ、堀田という地名になっている。
館跡南東隅の東隣が「鍛冶屋敷」、館の南側を流れる大久保川を隔てた南西側の金比羅山の裾部を「金山」といい、「馬場」、「陣加堂」、「上円田」、「中村」など城下集落に関係の深い小字名が残っている。
平成元年に館跡の発掘調査が行われ、中世のカワラケや常滑焼の甕片などが発見、確認されている。
(看板資料より)
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