滝川源右衛門助義・笠井肥後守満秀相討の地・橋詰さんばし跡(鵜の首) |
2014年08月15日 |
橋詰さんばし跡
わ 天正3年5月21日長篠の役・設楽原の合戦は武田方に利なく日が西に傾くにつれ武田方は殿戦へと押されていった。ここ橋詰において笠井肥後守は勝頼の馬が疲弊したのを知るや己が馬を無理に勝頼に勧めて之を立退かせ、自らはこの地に於いて徳川軍をくい止め壮烈な討死をした。 |
瀧川助義・笠井肥後相討ノ地
う 天正3(1575)年5月21日、長篠設楽原合戦の武田方敗走のとき、武田家旗本笠井肥後守満秀は主君に自分の乗馬を譲り自らは我こそは勝頼と名乗って、瀧川郷の領主で織田方に属する瀧川源右衛門助義と組討ち、刺違えて戦死したのがここ橋詰、猿橋の地である。
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2006年05月05日 |
わ 天正3年5月21日長篠の役・設楽原の合戦は武田方に利なく日が西に傾くにつれ武田方は殿戦へと押されていった。ここ橋詰において笠井肥後守は勝頼の馬が疲弊したのを知るや己が馬を無理に勝頼に勧めて之を立退かせ、自らはこの地に於いて徳川軍をくい止め壮烈な討死をした。 |
瀧川助義・笠井肥後相討ノ地
う 天正3(1575)年5月21日、長篠設楽原合戦の武田方敗走のとき、武田家旗本笠井肥後守満秀は主君に自分の乗馬を譲り自らは我こそは勝頼と名乗って、瀧川郷の領主で織田方に属する瀧川源右衛門助義と組討ち、刺違えて戦死したのがここ橋詰、猿橋の地である。 |
橋詰さんばし跡
長篠合戦余話によれば、笠井肥後守満秀の子である孫右衛門慶秀は大谷刑部少輔良継に仕えた。井伊直政は時々大谷吉継を訪ねたので笠井満秀の子が大谷家に仕えていることを知った。あるとき井伊直政は笠井慶秀に父である笠井肥後守満秀の最後の様子を話し、笠井慶秀は涙を流して聞いたという。関ヶ原の合戦で大谷吉継が死んだ後、笠井慶秀は井伊直政の話を思い出し、井伊家を訪ねた。井伊直政は彼の亡父の忠節を思って禄を与えて家臣にしたという。 |
本史跡は、花の木公園釣堀の中にあります。釣堀から更に奥に進んで行くと寒狭川にたどり着きますが、この渓谷の景色が素晴らしかったです。長篠城の豊川(寒狭川)と宇連川(三輪川)の合流地点(度合)とともに是非訪れたいところだと思います。
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