蒲原城 |
2014年12月07日 |
本郭南曲輪
蒲原城は、蒲原丘陵から孤立した城山層を要塞化した山城で、築城時期は室町時代の前期頃か。築城者は今川氏が駿河守護として入国した後、その一族によって築城したものと思われる。文献上には特定の城主はなく、戦乱の折城代、城番が置かれた。永禄12(1569)年1月今川氏の盟友関東北条方の北条新三郎守城の折、本郭を大改修したが、同12月6日武田氏の攻撃にあい落城。蒲原城は武田方に移る。 |
城址看板に書かれていた蒲原城鳥瞰図(一部復元)
本郭南曲輪
本郭南曲輪
本郭南曲輪から富士山
城山の布橋桜
蒲原城跡裏手の山肌にひっそりと佇むこの桜は幹周が胸高2.5m、樹高15m、推定樹齢は200年。蒲原で最も大きな桜と云われています。 |
善福寺曲輪
善福寺曲輪について |
本郭南曲輪と善福寺曲輪を分ける空掘
善福寺曲輪下の石垣
善福寺曲輪下の腰曲輪
2003年06月21日 |
蒲原城は、蒲原丘陵から孤立した城山層を要塞化した山城で、築城時期は室町時代の前期頃か。築城者は今川氏が駿河守護として入国した後、その一族によって築城したものと思われる。文献上には特定の城主はなく、戦乱の折城代、城番が置かれた。永禄12(1569)年1月今川氏の盟友関東北条方の北条新三郎守城の折、本郭を大改修したが、同12月6日武田氏の攻撃にあい落城。蒲原城は武田方に移る。 |
城址看板に書かれていた蒲原城鳥瞰図(一部復元)
搦手側から見た蒲原城
永禄12(1569)年10月北条方の小田原城包囲、三増峠の合戦で北条軍を破った武田方は、帰国後すぐに駿河に攻め入り、年内中に興津城、蒲原城を攻めてこれを攻略している。当時蒲原城には、北条幻庵(北条早雲の三男)の次男新三郎氏信(綱重)、三男長順が守っていましたが、武田方の総大将勝頼に攻め滅ぼされています。蒲原城には山県昌景が置かれ、駿河の北条軍は勢力後退を余儀なくされました。その後駿河府中城にいた岡部正綱を説得してこれを奪取し、1年前の興津対陣の際の無念を晴らしたのでした。 小説武田信玄では、勝頼が土地の武士に「天嶮の要害蒲原城を落とすには、城の背後の道場山に登り善福寺曲輪を攻めるのが手取り早い」という話を聞き、勝頼自らが城の背後から攻め、従弟の武田信豊(信繁の子)が正面(大手門)から攻めた様子が描かれています。善福寺曲輪を攻め落とした勝頼は信豊とともに先頭に立って本丸に向かって攻めかかったとのことです。蒲原城は山の裏側に駐車場があって登っていくことができるのですが、ちょうど私が歩いて登っていったルートを勝頼も進んだのでしょうか。 |
善福寺曲輪(左は本廓)
善福寺曲輪について |
善福寺曲輪からの駿河湾
物見台から見た善福寺曲輪
本廓
本廓から見える薩埵山と駿河湾
蒲原城を落とした信玄はこの城に留まって駿府城を守る岡部正綱を説得してこれを落としましたが、信玄も蒲原城本丸から駿河湾と薩埵山を望み、この向うの駿府城のことを思いながらこの景色を見たことでしょう。また、見慣れない海を見てこの景色に感動するとともに水軍を編成して遠くない将来に実行するであろう西上作戦のことを考えていたかもしれませんね。
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→祐泉寺
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