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長野県佐久市

岩尾

2014年05月02日

この城跡は、千曲川と湯川の合流点に近い丘陵上を利用した中世の平山城跡である。文明10(1478)年に佐久郡大井庄の地頭大井氏の支族大井行俊によって、この岩尾の地に築城されたといわれる。城跡は東方に大手があり、梯形状で本郭が最高所にある。本郭の東側は二の郭、三の郭と続く。三の郭の東側は急斜面となってその下に三日月堀の跡がある。更にその東側には土塁に囲まれた台曲輪がある。また本郭の西側に細長い一郭があり、その西側に掘切を隔てて、控二の郭というべき一郭がある。
室町時代中頃から戦国時代末期までの約百年余にわたり、大井氏一族の五代に及ぶ居城として使用された城跡で、城主の平常の居館と戦時の軍事的防塞の機能を兼ね合せた平山城として本郭以下城跡の規模をよく残していて重要である。
(看板資料より) 

二の丸跡

主郭跡

岩尾城は室町時代中期の文明10(1478)年に、この地を分地された大井行俊が岩村田館守護のために築城し、大井氏一族が数代にわたって使用した平山城で、東方を大手とし、本郭は最高所にあって逐次東方へ二の郭、三の郭と続き、その下に三ヶ月堀、更に東方より北方に台曲輪、西方に掘切を経て控曲輪の跡がある。
岩尾大井氏は行頼、行吉の頃武田氏に出仕したため、一時その留守を真田氏が預かったこともあるといわれているが、天正11(1583)年行吉は依田信番に攻められ力尽きて開城した。
(看板資料より)

主郭跡の断崖

三ヶ月堀跡



2003年06月29日

この城跡は、千曲川と湯川の合流点に近い丘陵上を利用した中世の平山城跡である。文明10(1478)年に佐久郡大井庄の地頭大井氏の支族大井行俊によって、この岩尾の地に築城されたといわれる。城跡は東方に大手があり、梯形状で本郭が最高所にある。本郭の東側は二の郭、三の郭と続く。三の郭の東側は急斜面となってその下に三日月堀の跡がある。更にその東側には土塁に囲まれた台曲輪がある。また本郭の西側に細長い一郭があり、その西側に掘切を隔てて、控二の郭というべき一郭がある。
室町時代中頃から戦国時代末期までの約百年余にわたり、大井氏一族の五代に及ぶ居城として使用された城跡で、城主の平常の居館と戦時の軍事的防塞の機能を兼ね合せた平山城として本郭以下城跡の規模をよく残していて重要である。
(看板資料より)

岩尾城は室町時代中期の文明10(1478)年に、この地を分地された大井行俊が岩村田館守護のために築城し、大井氏一族が数代にわたって使用した平山城で、東方を大手とし、本郭は最高所にあって逐次東方へ二の郭、三の郭と続き、その下に三ヶ月堀、更に東方より北方に台曲輪、西方に掘切を経て控曲輪の跡がある。
岩尾大井氏は行頼、行吉の頃武田氏に出仕したため、一時その留守を真田氏が預かったこともあるといわれているが、天正11(1583)年行吉は依田信番に攻められ力尽きて開城した。
城の概略図はこちら。
(看板資料より)


本丸?への階段

二の丸

三の丸

三ヶ月掘跡

 
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