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群馬県高崎市

一郷山城

2009年09月05日

【牛伏山展望台】
 牛伏山は、標高491m、万葉集に「多胡峰」と詠まれ、「多胡美人」と呼ぶ朝日岳、羊太夫ゆかりの八束山と合わせ、「吉井三山」といわれる三山の主峰で、その姿が臥牛に似ているので「牛伏」とよばれたのであろう。
 牛伏山東西二峰から成り、西峰は金毘羅山とよばれ、東峰は一郷山という。
 永い歴史の中で、さまざまな事件がこの地をめぐって起きてきた。特に、この一郷山にかかわる事件がある。
 永享10(1438)年関東管領上杉憲実は、鎌倉公方足利持氏と争い、鎌倉を退き、平井城(藤岡市西平井)に拠った。
 その頃、平井城西方の守りとして、新堀城(多比良城)と共に築城され、一郷山城は、山頂にあることから、のろし台としての任務が主なものであったろう。
 永禄6(1563)年2月、西上州侵略を図る武田信玄は、平井城(管領府)攻略の諸戦として、一郷山城を攻めた。
 防戦のため、山頂から落とした大石は、真下の見銘寺を押し潰し、火災となり、城は全焼、将兵は全滅、婦女子は急崖に身を投げ、落城した。ついで新堀城も攻略された。
 幾多の哀歓を秘めた牛伏山一帯は、緑豊かな吉井町の象徴として、新たな装いをはじめた。洞窟観音が祀られ、自然遊歩道や動物園が整備され、誰もが憩える安らぎの場となっている。
 そこで、上信越自動車道開通を期に、由緒ある一郷山城跡に、「牛伏山展望台」を開設した。
 一階 地元特産品の紹介・展示・即売
 二階 吉井町の歴史・文化・観光資料展示
 三階 東西南北を見渡す展望台
(看板資料より)

展望台からの景色

【牛伏山の牛の由来】
 吉井町の名山、標高491mの牛伏山は、もとは一郷山とも、金毘羅山とも呼ばれていたようである。
 この山に、いくつかの伝説がある。
 昔、この山の頂上の松に天狗が住んでいた。人々は、天狗をこの山の主と思い、また、天狗のいる松は「天狗松」と呼んで、共におそれ、大切にしていた。
 いつのころか、この天狗が、ひとりの村娘に恋をした。
 それから天狗は、若者姿に身を変え、牛に乗って娘に合いに行ったが、娘の心を動かすことができなかった。
 天狗は、この娘をあきらめきれず、遂に山の姿に変えてしまった。これが朝日岳で、いま、多胡美人と呼ばれている。
 さて、時移り、世は変わり、天狗も牛も見えなくなったが、この山の姿は臥牛の姿に変わり、「牛伏山」と呼ばれるようになった。「天狗松」は、その昔を語るかのように、今も緑の姿を落としている。
 吉井町では、牛伏山観光開発をすすめることになり、牛伏山の名の由来を語るこの伝説をもとに、石像彫刻家倉田辰彦氏に依頼し、山頂露頭の大岩石をもって「牛伏山の牛」を彫刻し、牛伏山の象徴として祀ったのである。
(看板資料より)

本丸跡と思われる場所

吉井町の南には平井の金山から国峯の城山にわたる間に、南の山地から分離した標高400-500mの東西に長い峰の山が並ぶ。牛伏山・八束城山・旭岳がそれで、各山頂に山城が築かれている。牛伏山の長峰の東端部にあるのが一郷山城である。この城は多比良城の要害城で、永禄6(1563)年2月、武田信玄は見銘寺の水の手を占領して攻め立てた。七日夜、城兵は大石を落として寺もろとも寄せ手を押し潰したところ、火が出て山を焼き、城も炎に包まれ、城将安部之友以下ことごとく討死して落城したという。
 城は40m×25mの土居を巡らした本郭を中心とし、六か所の堀切により西に二郭、東は段下がりに数郭を構えた並郭の繩である。
 近年、自動車道路ができ、西端部が失われた。
(日本城郭大系より)

 

 
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