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長野県麻績村

法善寺

2014年11月16日

法善寺由緒
法善寺は、元法相宗岩龍山西谷寺と称し、奈良興福寺の末寺と推定され、興福寺の前身山階寺の寺封「信濃二百戸」と新抄格勅符抄に載っている中の一ヶ所がこの西谷寺を中心とした地域であろうと見られている。
明応元(1492)年、第24世権律師西平の時代に西谷寺は廃寺となった。しかし永正9(1512)年麻績城主服部左衛門清信が開基となり、賢甫宗俊禅師を迎えて、曹洞宗佛眼山法善寺(遠州奥山村善住寺末寺)として再興、今日に至っている。この間享保元年と文政12年の2度にわたり火災に遭っている。
村指定有形文化財
・木造阿弥陀如来座像
・四阿屋山懸仏
法性院高札(武田信玄高札)
・賢甫宗俊和尚出家略作法一巻
・卒翁筆弥勒浄土の絵巻
・武田信玄奥書
・信濃三十三番観音札所第一番聖観音立像
(看板資料より)

本堂

法性院高札(武田信玄高札)

武田信玄の高札
武田信玄が深志城を攻略したのは天文19(1550)年7月の事であり、筑北地方の攻撃にかかったのは天文22年3月とされている。当時麻績城主は服部左衛門清信の子清正であったが、背後に村上義清の支援があり、麻績攻略が安易でない事を考え、使者を派遣して高札を掲げ地域住民の懐柔をはかった。高札とともに「卒翁筆 弥勒浄土絵巻」が贈られている。
(パンフレット記載文章より)

 



2008年12月30日

法善寺由緒
法善寺は、元法相宗岩龍山西谷寺と称し、奈良興福寺の末寺と推定され、興福寺の前身山階寺の寺封「信濃二百戸」と新抄格勅符抄に載っている中の一ヶ所がこの西谷寺を中心とした地域であろうと見られている。
明応元(1492)年、第24世権律師西平の時代に西谷寺は廃寺となった。しかし永正9(1512)年麻績城主服部左衛門清信が開基となり、賢甫宗俊禅師を迎えて、曹洞宗佛眼山法善寺(遠州奥山村善住寺末寺)として再興、今日に至っている。この間享保元年と文政12年の2度にわたり火災に遭っている。
村指定有形文化財
・木造阿弥陀如来座像
・四阿屋山懸仏
・法性院高札(武田信玄高札)
・賢甫宗俊和尚出家略作法一巻
・卒翁筆弥勒浄土の絵巻
 武田信玄奥書
・信濃三十三番観音札所第一番聖観音立像
(看板資料より)


四阿屋山大権現

木曾義仲公の開基と伝えられ、武将から農民にまで広く信仰された。御正体は如意輪観音の懸仏であり別当法善寺の手により、四阿屋山頂に開扉祭祀されたが、天保年間より如意輪観音を法善寺の鎮守として境内に勧請し、以降当寺内において祭事が営まれている。
(看板資料より)


本堂

朝一番で訪れたのが麻績村の法善寺です。まだ8時前でしたのでお話を聞くのは難しいかなと思ったのですが、住職と思われる方に対応していただき、更にお寺に伝わっている法性院高札や武田信玄奥書も見せていただき、しかも写真撮影も許してくれました。


法性院高札(武田信玄高札)

武田信玄の高札
武田信玄が深志城を攻略したのは天文19(1550)年7月の事であり、筑北地方の攻撃にかかったのは天文22年3月とされている。当時麻績城主は服部左衛門清信の子清正であったが、背後に村上義清の支援があり、麻績攻略が安易でない事を考え、使者を派遣して高札を掲げ地域住民の懐柔をはかった。高札とともに「卒翁筆 弥勒浄土絵巻」が贈られている。
(パンフレット記載文章より)

武田信玄奥書

 
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