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群馬県高崎市

保渡田城

2014年08月03日

保渡田城址は、箕輪城址の南東約3キロメートルの位置にあり、標高140メートル内外の平坦地にある。高台の上にあるのでないから目立たない。行政区画は群馬郡群馬町保渡田である(現在は高崎市)。空掘りは南に向ってコの字形の口を開き、現在は片平光久・矢島・片平圀芳の諸氏が住み、北城と呼んでいる。道を隔てて南側に本丸があり、ここの南端に天主山と称する物見台らしい小丘がある本丸跡には現在集会所がある。保渡田の大熊氏の記録によれば保渡田城址に住み着いたのは、大熊備前守・塚越半七・矢島久左衛門・吉田伊豆守等であった。
箕輪城が武田信玄の手に入ると、内藤昌豊は箕輪の城代となった。昌豊は保渡田城に住み、毎日箕輪城に通ったと伝えられている。天正3年5月21日、内藤昌豊が長篠で討死してからは、その子昌月が箕輪城代となり、保渡田城に起居していたという。
(内藤昌豊公とその子孫より)

天子塚



2008年09月24日

北城土塁上の祠

保渡田城址は、箕輪城址の南東約3キロメートルの位置にあり、標高140メートル内外の平坦地にある。高台の上にあるのでないから目立たない。行政区画は群馬郡群馬町保渡田である(現在は高崎市)。空掘りは南に向ってコの字形の口を開き、現在は片平光久・矢島・片平圀芳の諸氏が住み、北城と呼んでいる。道を隔てて南側に本丸があり、ここの南端に天主山と称する物見台らしい小丘がある本丸跡には現在集会所がある。保渡田の大熊氏の記録によれば保渡田城址に住み着いたのは、大熊備前守・塚越半七・矢島久左衛門・吉田伊豆守等であった。
箕輪城が武田信玄の手に入ると、内藤昌豊は箕輪の城代となった。昌豊は保渡田城に住み、毎日箕輪城に通ったと伝えられている。天正3年5月21日、内藤昌豊が長篠で討死してからは、その子昌月が箕輪城代となり、保渡田城に起居していたという。
(内藤昌豊公とその子孫より)

北城空掘跡

今回は事前調査が不十分なまま来てしまったのでなかなか現地にたどり着くことができませんでした。とりあえず箕輪城に行けば何とかなるだろうと思いながら運転しました。箕輪城の近くに役場があったのでそちらで聞いてみることにしました。ここで初めて分かったのですが、保渡田は現在は同じ高崎市でも旧群馬町なので情報がほとんど無かったのです。しかししばらくしてから保渡田城のことに詳しそうな人が現れて場所を教えてくれました。保渡田地区まで行ってあとは現地で聞いて欲しいとのことでした。現地付近に到着して何人かに聞いてみてやっとのことで北城といわれている所の方のお宅にたどり着くことができました。家の裏に案内してもらいました。大きな土塁が残っていました。雨などが降ると崩れてくるので石を組んでいるのだそうです。土塁の上に行ってみると祠がありました。一旦降りて裏側にまわって見ると空掘跡を確認することもできました。案内板が立っていましたが字が消えてしまい読むことはできませんでした。先ほどのお宅で収獲された柿を頂きました。内藤昌豊公も食べたかもしれないですね。

高崎市役所箕郷支所

保渡田城を見つける際にお世話になった高崎市役所箕郷支所内部で飾られていた旗です。左から順番に、
・箕輪城主北条家の家紋 三つ鱗
・箕輪城主長野家の家紋 檜扇
・高崎市旗
・箕輪城主井伊家の家紋 丸に橘
・箕輪城主武田家の家紋 武田菱
と書かれていました。役場の人の了解をもらって撮影しました。

 

 
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