羽布城は、巴川の右岸に沿って、東西方向にのびる山並みの先端部に築かれた中世の山城です。南・北・西の三面は急斜面で、その麓を囲むように巴川が流れ、天然の要害をなしています。
遺構は面積約500uの本曲輪とこれを取り巻く曲輪、堀切などによって構成されています。曲輪の各所には使途不明の石塊が数多く残っています。地元ではこの遺構を含む山一帯を「城山」と呼んでいます。
城の歴史に関することは詳細不明ですが、「三河国ニ葉松」には「羽布村古城・城主不知」と記されています。しかし、寛永郷帳には羽布城主として川合小兵衛の名が見えます。平常は山麓に居住し、非常の際の拠点を羽布城としたと推定されます。
元亀・天正のころ(1570年ころ)、羽布城は大桑城とともに、甲斐の武田軍に攻められて落城したと伝えられています。また羽布城から作手方面へ向かう連山の頂部には武田軍が東進のために切り開いたと伝えられる根道が残っています。
(看板資料より)
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