後閑城 |
2014年11月23日 |
九十九川と後閑川との合流地点の北岸舌状台地の丘陵先端部に立地する。現況は城址公園であるが、一部山林となっている。本丸(主郭)は標高は約276メートル、比高差約80メートルである。 |
後閑小学校のすぐ裏手にあり、嘉吉元(1441)年に依田内匠頭忠政により築城されたといわれる。本丸と二の丸からなる山城である。南北に続く稜線を4ヶ所で堀切りにより分断している。南端が本丸である。本丸は南北80m幅25m程で、西側には数mの段差をおいて階段状に郭が設けられた。二の丸は本丸とは大堀切で分けられており、二の丸が失われても本丸がすぐに落ちないようになっていた。 |
後閑城は嘉吉・文安(1445年頃)の頃、信州佐久郡から移ってきた依田匠頭忠政の築城とされる。天文7(1538)年依田光慶が鷹巣城(板花)に移った後に北条政時が一時在城したが、永禄3(1560)年、政時は丹生城主であった新田景純との争いで敗れ、その後新田氏が後閑城に移った。新田氏は姓を後閑に改め、景純の子信純の頃、武田信玄に従い、天正10(1582)年武田氏滅亡後、北条氏に従うが、天正18(1590)年北条氏滅亡後に後閑城は廃城になったといわれている。 |
本丸
後閑城は嘉吉・文安の頃(15世紀中葉)、信州の依田忠政が築いたと伝えられています。上後閑の長源寺にある文明2(1470)年10月3日付けの依田信濃入道寄進状もそれを裏付けています。 |
東郭からの本丸
物見櫓
後閑城の二の丸は、本丸から約20mの比高差があり、北から南東方向に「く」の字形に曲りながら延びています。本丸と二の丸の間には、大堀切があり、それによって本丸とは完全に断たれた、一城別郭と言われる構造になっています。これにより、戦いによって二の丸が落とされたとしても、本城には累を及ぼさないようになっているのです。この様な構造は、山城に多く見ることができます。 |
北郭
2008年09月24日 |
九十九川と後閑川との合流地点の北岸舌状台地の丘陵先端部に立地する。現況は城址公園であるが、一部山林となっている。本丸(主郭)は標高は約276メートル、比高差約80メートルである。 |
本丸
後閑城は嘉吉・文安(1445年頃)の頃、信州佐久郡から移ってきた依田匠頭忠政の築城とされる。天文7(1538)年依田光慶が鷹巣城(板花)に移った後に北条政時が一時在城したが、永禄3(1560)年、政時は丹生城主であった新田景純との争いで敗れ、その後新田氏が後閑城に移った。新田氏は姓を後閑に改め、景純の子信純の頃、武田信玄に従い、天正10(1582)年武田氏滅亡後、北条氏に従うが、天正18(1590)年北条氏滅亡後に後閑城は廃城になったといわれている。 |
本丸
後閑城は嘉吉・文安の頃(15世紀中葉)、信州の依田忠政が築いたと伝えられています。上後閑の長源寺にある文明2(1470)年10月3日付けの依田信濃入道寄進状もそれを裏付けています。 |
本丸からの景色
東側の駐車場に車を止めて階段を登りました。いたる所に蜘蛛の巣がありました。ちょっと油断すると蜘蛛の巣にかかってしまいます。最初は突き当りを右に行って東郭群に行きました。こちらは突き当たりのようで、引き返して二の丸に寄ってから東郭、本郭に行きました。二の丸には櫓が復元されていて一番上まで登ってみましたが特に眺めが良いわけではありませんでした。各郭には休憩所が整備されていました。しかし私の他には1名見かけただけであまり人々の憩いの場所ではなさそうでした。本丸から大きな堀切を経て北郭に寄り、西側に下りてきました。そして南郭を経て二の丸に戻ってきました。大変規模が大きくてしかもきれいに整備されていて驚きました。もっと大勢の人に訪れてもらいたいものです。 |
二の丸
後閑城の二の丸は、本丸から約20mの比高差があり、北から南東方向に「く」の字形に曲りながら延びています。本丸と二の丸の間には、大堀切があり、それによって本丸とは完全に断たれた、一城別郭と言われる構造になっています。これにより、戦いによって二の丸が落とされたとしても、本城には累を及ぼさないようになっているのです。この様な構造は、山城に多く見ることができます。
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