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長野県佐久市

円満寺

2014年05月02日

明治33(1900)年に書かれた寺伝によると、創立は康治2(1143)年平安時代で開祖は新義真言宗々祖興教大師とされています。その当時は現在の位置より南の大井城の辺りにあり、真言律宗無本寺という名で三重塔、子院が12坊あったと書かれています。仁治2(1241)年、甲斐源氏の一族で騎射として鎌倉でも有名であったとされる大井領主の源光長が大井城の東北に真光寺を建て、大井氏の祈願所としていたそうです。但しこの時建てられた真光寺と最初にあった無本寺との関係は寺伝に残されていないため明らかになっていません。
その後大永年間(1521〜27)兵火により堂塔悉く廃絶の運命にあったものを、紀伊国の僧雄伝が天文14(1545)年室町戦国時代に武田信玄の援助を得て再建されました。この再建に関して武田信玄が雄伝に武運を祈らせ、その印として寺の再興を許したという説もあります。
永禄年間(1558〜69)に現在の場所に移り本堂と観音堂を建て、寺号を円満寺としたそうです。またもとからその場所に天満宮と梅の木があったので山号を梅霊山としたと書かれています。子院は6坊を数え、一時隆盛を極めましたが元亀(1570〜72)、文禄(1592〜95)年間の度重なる兵乱により衰退。6坊あった子院も3坊になったそうです。更に延享2(1745)年の火災により、子院3坊と観音堂が焼失し一度全滅してしまったといいます。
しかし延享4(1747)年有志者の努力により、租税を免じられた土地に再建し、山号を大悲山と改めたと書かれています。その後岩村田町中が施主となって観音堂を再建し、鬼門鎮護の祈祷所としたといいます。安政8(1861)年には当時天皇より御紋付提灯を預けられたと残っています。
ここから先は口伝でしか残っていない話になりますが、明治初期に先に述べた大井氏の関係で大井法華堂と呼ばれるものが存在したそうです。たまたまその時私の住んでいる佐久地域に当時の成田山新勝寺の貫首が巡錫にこられたそうで、本当は大井法華堂に行くはずでしたがせっかくなら真言宗のお寺の方が良いという話になり、私の自坊である円満寺においでになったそうです。その際に新勝寺の出張所として本堂に不動明王を安置し、山号を成田山としたと伝えられています。その流れで現在も本尊は不動明王になっています。
(円満寺・自坊の縁起についての説明的な法話より)

本堂

康治2(1143)年に創建されたという。昔は古城の艮(東北)の方角の字芝間にあった。大永年間兵火のために廃せられたが、紀伊国の僧雄伝なるものが再興のために止錫した。天文19(1550)年の戸石合戦の折、武田晴信が武運の加持を依頼し、雄伝は7日間勤行した。晴信はこれによって勝利を得ることができたとして再興を許し、旧地を与えた。このために後世武田氏の開基という。雄伝はついに一宇を再建した。永禄年間に寺を今の地に移して観音の宝閣を建てた。
(長野県町村誌より) 

石地蔵



2009年05月05日

康治2(1143)年に創建されたという。昔は古城の艮(東北)の方角の字芝間にあった。大永年間兵火のために廃せられたが、紀伊国の僧雄伝なるものが再興のために止錫した。天文19(1550)年の戸石合戦の折、武田晴信が武運の加持を依頼し、雄伝は7日間勤行した。晴信はこれによって勝利を得ることができたとして再興を許し、旧地を与えた。このために後世武田氏の開基という。雄伝はついに一宇を再建した。永禄年間に寺を今の地に移して観音の宝閣を建てた。
(長野県町村誌より)

入口の左側へまわって駐車場に車を止めて境内を散策しましたが誰にも会えず、また何も無かったので詳しいことは分かりませんでした。

 

 
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