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福島県会津若松市

大龍寺


2007年03月04日

小笠原長時の墓

本堂の左側に墓域がありますが一番手前に小笠原長時の墓がありました。向かって右側が小笠原長時の墓で、左側が妻と娘の墓とのことでした。それぞれの墓石に戒名が彫られていました。その左側には400年忌の石碑があり、裏面には由来が彫られていました。
向かって右側にあった墓は、旧小笠原家臣の墓とのことで、戊辰戦争の際に会津軍として戦った人達の墓であるとのことでした。小笠原長時の墓の前に鉢を逆さまにしたものが置かれていましたが、ここには小笠原牡丹という花が植えられて保護されているとのことでした。小笠原牡丹というのは、小笠原長時が好きだったという真っ白な牡丹の花とのことでした。

小笠原長時は武田信玄に信濃を追われた後、どういう経路をたどったのかは定かではありませんが最終的には芦名氏の食客として会津の地にいたとのことでした。
命日が2月25日とのことなので多分旧暦正月の花見などの祝いの席で、芦名氏の家臣の妻に悪ふざけをしてしまい、その家臣にその場で刺し殺されたとのことでした。その際、妻と娘も巻き添えにあって殺されたのではないかとのことでした。3人とも命日が同じ日でした。当初はこの大龍寺から少し離れたところにある蔵の裏にあるお地蔵様のところに葬られていたそうですが、明治時代になってから今の地に改葬されたとのことでした。普段はほとんどだれも訪れることなくお寺で掃除をしたりするなどの管理をされておられるとのことでした。

本堂

小笠原長時公ハ新羅三郎源義光ノ子孫ニシテ小笠原長棟ノ子ナリ。天文18年長棟卒スルニ及ビテ家名ヲ継ギ信濃国深志ニ居リ弓馬ニ達シ武勇ヲ以テ称セラル。時ニ甲州ノ武田晴信辺境ヲ掠ムルニ長時数年ニワタリ防戦シテ大イニ武威ヲ顕ワス。然レドモ晴信兵ヲ以テ深志城ヲ襲ウコト数度長時終ニ勢イ盡ク。晴信長時ニ告ゲテ曰ク、信州ハ悉ク我有リ長時若シ晴信ニ属サバ則チ本領安堵スベキナリト。長時之ニ報イテ曰ク、昔武田ハ兄、小笠原ハ弟ト謂ウト雖モ小笠原ハ代々京都ニ居テ武田ヨリ上タリ今長時ニ至リテ何ゾ武田ニ属スベキヤト。終ニ信州ヲ去テ北越ニ移ル。後伊勢国ニ移リ居リ其時執権三好長慶ノ招キニヨリ将軍足利義輝ニ謁シ弓馬ノ師範トナル。其後将軍義輝三好長慶ガ為ニ害セラレ夫レヨリ長時会津ニ来リ芦名盛氏ニ依リ数年寓居ス。天正11年2月25日星野味庵宅ニテ家臣ノ手ニカカリ室、息女ト共ニ害サル。桂山寺ニ葬ル。寛永2年保科正之会津ニ入封ニ際シ桂山寺ヲ廃シ御供寺大龍寺ヲ此ノ地ニ置ク。享保3年250年忌ヲ機ニ墓地ヲ現地ニ定メ塔ヲ建立ス。
昭和57年400年忌ヲ行ウニ当リ募金ニヨリ修理復元シ建立。
昭和57年4月吉日
(石碑記載文章より)


幽霊の足跡

史跡とは少し違うのですがこのお寺には幽霊の足跡があるという情報もあったのでどこにあるのか聞いてみたところ、本堂にあるとのことでみせてもらうことにしました。本堂に通してもらいましたが、確かに本堂中央には幽霊の足跡がありました。幽霊の足跡がある床はうぐいす張りとのことで確かに踏み歩いてみると所々キュッキュッと音がしました。


小笠原長時の位牌

須弥壇の上には位牌がありました。位牌は、小笠原長時、妻、娘、そして徳川家光のものもありました。保科正之が徳川家光と兄弟であることからここに家光の位牌があるのではないかとのことでした。お寺の方の好意により、位牌の写真を撮らせてもらいました。三脚を借りて須弥壇の上に登って写真を撮らせてもらいました。


小笠原長時の娘が遊んだという人形

その後、隣の部屋に案内されました。人形の頭部と腕の部分がありましたが、小笠原長時の娘が遊んだ人形であるとのことでした。この人形のことを「あまかっつぁま」と呼んでいるのだそうです。会津地方では母親のことを「おかっつぁま」というらしく、「尼」と「おかっつぁま」をかけているのではないかとのことでした。お寺の方のお話では、小笠原氏を訪ねてきた人にはこの「あまかっつぁま」を撫でてもらっているんですとのことでしたので私も撫でさせてもらいました。お寺の方は「あまかっつぁま」のお話をしながら我がことのように、「無念だったろうに…」と話されていました。


山本家の墓

更に境内には山本勘助に縁のある墓があるとのことでしたので現地まで案内してもらいました。同志社大学設立に協力したという会津藩士山本覚馬に縁のある墓であるとのことでしたが、同時に山本勘助にも縁があるのではないかとのことでした。

 

 
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