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長野県塩尻市

長興寺

2014年05月24日

本堂

洗馬氏の開基という。天文23(1554)年に洗馬氏は滅んで武田氏の管轄となった。ここに小笠原氏の旗下の三村肥後入道が西洗馬に住んで、小笠原氏と武田氏の戦争の機に臨んで、密かに武田氏に通じて親子とも裏切った。このためついに小笠原氏は滅んだ。信玄は一時彼らを採用したが、三村親子の不義不忠の点を許さなかったためか、結局その不義を責めて滅ぼした。長興寺は三村氏の菩提寺だったので、滅亡の時にわずかの地を寄付した。永禄年間に武田氏は地を寄付し伽藍を再興した。そこで中興の開基を武田氏としている。
(長野県の武田信玄伝説より)


長興寺庭園

長興寺庭園は山畔を背景として作られた庭園で、面積は約1,100平方メートル、下部の池泉は全体的に細長く、中央部前方から大きく出島をつくり、小型の亀島を設けてある。作庭時代は江戸中期安永から天明頃を前後とする様式で、山畔丘部の主石としての石組も、山畔中部の石組又は池泉の護岸石組も、安永、天明前後の手法を示していて、江戸中期末年の典型的な池泉庭園となっている。保存もよく山畔の植栽も美しく観賞価値も充分である。
(看板資料より)



2008年12月30日

洗馬氏の開基という。天文23(1554)年に洗馬氏は滅んで武田氏の管轄となった。ここに小笠原氏の旗下の三村肥後入道が西洗馬に住んで、小笠原氏と武田氏の戦争の機に臨んで、密かに武田氏に通じて親子とも裏切った。このためついに小笠原氏は滅んだ。信玄は一時彼らを採用したが、三村親子の不義不忠の点を許さなかったためか、結局その不義を責めて滅ぼした。長興寺は三村氏の菩提寺だったので、滅亡の時にわずかの地を寄付した。永禄年間に武田氏は地を寄付し伽藍を再興した。そこで中興の開基を武田氏としている。
(長野県の武田信玄伝説より)

住職と思われる方にお話を聞くことができました。武田氏中興開祖とのことですが、三村氏が武田氏に滅ぼされてしまった状況ではそうせざるを得なかったのではないかとのことでした。寺には武田による安堵状?資料が伝えられているが公開はしていないとのことでした。


長興寺庭園

長興寺庭園は山畔を背景として作られた庭園で、面積は約1,100平方メートル、下部の池泉は全体的に細長く、中央部前方から大きく出島をつくり、小型の亀島を設けてある。作庭時代は江戸中期安永から天明頃を前後とする様式で、山畔丘部の主石としての石組も、山畔中部の石組又は池泉の護岸石組も、安永、天明前後の手法を示していて、江戸中期末年の典型的な池泉庭園となっている。保存もよく山畔の植栽も美しく観賞価値も充分である。
(看板資料より)

 

 
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