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岐阜県恵那市

明知城

2014年03月22日

万ヶ洞天神神社の由来
九州の大宰府において延喜3年2月25日59歳で亡くなられた、菅原道真公をお祭りしてあります。
道真公墳墓の近くに建立された、安楽寺が大宰府天満宮の起源で、やがて京都北野天神に霊神として迎えられ、王都を悪霊より守る守護神として厚い信仰を生み、又ここを起点として全国に広がりました。この万ヶ洞天神社もその一つです。天神はもと此の地上に降りられなかった、天の神、5代で17柱を指します。又民間では「人の出生」、「火や雷」を恐れて、ヒトマル信仰があり、神道の天神と、この信仰が混ざり、火雷天神などの形になり、それに道真公を加えました。
その後天神といえば道真公を指すようになり、今日に伝わりました。鎌倉時代に城が造られるようになると、此の信仰は城下の安泰を願い、悪霊からの守護を祈って建立されると共に、文筆に秀でた学問の神としても信仰を集めました。万ヶ洞は、白鷹城の山麓にあり、此の丘つづきに秋葉稲荷、代官所、龍護寺、八王子神社、等々続いています。
寺には遠山氏累代の墓があり、領主の産土の神社には、人丸信仰ゆかりの、柿本人麻呂社や、天満宮社を始め多くの社が併祀され此の山里の伝説が伝えられています。その一つの明智光秀伝説は、砦「千畳敷」で生まれこの山上の井戸水を産湯として使ったと伝え、今も産湯の井戸として残っています。又城と対する中の御山砦の麓には母のお牧の方の慰霊の供養塔が建ち、槙の古樹が生い繁っています。龍護寺山門脇には、光秀の供養塔が苔むして建っているが、その塔は光秀の念力で割れたと伝えられています。寺には光秀の直垂を縫い込んだ、九条衣が寺宝として残されている。領主産土の八王子神社境内には光秀建立とも再建とも言われてその光秀の家紋入りの人麻呂神社が祀られ、社殿脇には光秀手植えの楓が植えられています。
この天神社には光秀幼少の折り、京都嵯峨天竜寺の学僧を招いて学んだ学問所であったと伝えられています。
毎年例祭は3月25日に営まれています。草深い山里にどっかと腰をおろした伝説はいつまでもいつまでも伝えられることでしょう。
(看板資料より) 


出丸

東西17間、西北14間、城塞の本拠として石垣門の跡が残っている。水の口砦を眼下にして、本丸以上に重要視されたところである。
(看板資料より) 


猿戻し
猿も登れずに引き返すという。山城防塞独特の絶壁である。
(看板資料より) 


腰曲輪

本丸南下、西北へ幅4間から6間の郭がある。三の丸ともいい、武田勢を丸太や石を落として防いだところと伝えられている。
(看板資料より) 


二の丸

本丸の東下にあり、東西17間、南北11間、北と東側は絶壁になっている。
(看板資料より) 


明知城
宝治元(1247)年、源頼朝の重臣、加藤次景廉の孫である明知遠山氏の始祖、景重の築城による遠山氏累代の居城であった。天険の地形を巧みに利用した山城で、土盛砦として保塁数大小23ヶ所を備え、原型のまま残されているのは日本でも数少ない山城として県の指定文化財となっている。
天正2(1574)年春武田勝頼2万の大軍を以って、東濃の諸域を攻略、三河、尾張。遠江、駿河への拠点明知城を目指す。城主遠山一行が叔父利景とともに急を織田信長に報じ兵500とともに之を護る。
信長、事の重大さを思い明知城を助けんと、子、信忠とともに兵3万を率い明知城の西方鶴岡山に布陣するも、武田の将、山県三郎兵衛昌景千騎を以って信長の退路を断つ。信長山岳戦の不利を思い、動かずやがて兵を引く。
援軍を失った明知城は落城した。
(看板資料より)

明知城縄張り図
明知城は、明知遠山氏代々の居城であった。石垣は見られないが、多くの曲輪、堀切等が良好に残されている。
特徴的なのは、主要な曲輪の周囲に設けられた「畝状空掘群」と呼ばれる遺構である。これは斜面に平行にするよう設けられた堀(横堀)と斜面に直行するように設けられた複数の堀(竪堀)を組み合わせたものである。斜面を伝って進入しようとする敵兵の動きを封じる目的で築かれた。畝状空掘群を持つ城郭は、恵那市域でもごく限られており、その築かれた時期も今のところ定かではない。
(看板資料より)

 



2003年10月11日

本丸

明知城絵図


宝治元(1247)年、源頼朝の重臣、加藤次景廉の孫である明知遠山氏の始祖、景重の築城による遠山氏累代の居城であった。天険の地形を巧みに利用した山城で、土盛砦として保塁数大小23ヶ所を備え、原型のまま残されているのは日本でも数少ない山城として県の指定文化財となっている。
天正2(1574)年春武田勝頼2万の大軍を以って、東濃の諸域を攻略、三河、尾張。遠江、駿河への拠点明知城を目指す。城主遠山一行が叔父利景とともに急を織田信長に報じ兵500とともに之を護る。
信長、事の重大さを思い明知城を助けんと、子、信忠とともに兵3万を率い明知城の西方鶴岡山に布陣するも、武田の将、山県三郎兵衛昌景千騎を以って信長の退路を断つ。信長山岳戦の不利を思い、動かずやがて兵を引く。
援軍を失った明知城は落城した。

(看板資料より)

宝治元(1247)年遠山景重築城。元亀3(1572)年遠山景行武田勢秋山に攻略さる。天正2(1574)年4月その子景玄再び武田勝頼に攻略さる戦死者500余名。
天正10(1582)年遠山利景家康に従ひ奪還。天正11年森長可の圧力に依り城を捨て家康のもとに走る。天正12年4月家康の命に依り奪還すれど天下は秀吉に帰するに依り森左近入城再び家康のもとに走る。
慶長5年9月関ヶ原合戦故城奪還。慶長8年5月入城す。元和元年11月方景旗本として江戸邸を賜り当城廃城となる。城下大手門近くに陣屋を置く。
(看板資料より)


 

 

 


明知陣屋跡(代官所)


元和元(1615)年旗本二代領主方景に江戸邸が与えられ、明知城は廃城となり、かわりに城山下の大手門近くに陣屋がおかれることになった。この門が大手門跡である。
旗本遠山氏の御陣屋として、代官が江戸時代から明治の大政奉還まで行政を行ったところである。
土蔵と村上氏の代官屋敷はいまもそのまま昔の面影をとどめ、ひっそりとした中に江戸時代の風情が偲ばれる。
旗本遠山氏の領地は6,531石6斗。旗本五千騎のうち、6千石以上の知行は50指に満たない。
(看板資料より)


万ヶ洞天神神社の由来


九州の大宰府において延喜3年2月25日59歳で亡くなられた、菅原道真公をお祭りしてあります。
道真公墳墓の近くに建立された、安楽寺が大宰府天満宮の起源で、やがて京都北野天神に霊神として迎えられ、王都を悪霊より守る守護神として厚い信仰を生み、又ここを起点として全国に広がりました。この万ヶ洞天神社もその一つです。天神はもと此の地上に降りられなかった、天の神、5代で17柱を指します。又民間では「人の出生」、「火や雷」を恐れて、ヒトマル信仰があり、神道の天神と、この信仰が混ざり、火雷天神などの形になり、それに道真公を加えました。
その後天神といえば道真公を指すようになり、今日に伝わりました。鎌倉時代に城が造られるようになると、此の信仰は城下の安泰を願い、悪霊からの守護を祈って建立されると共に、文筆に秀でた学問の神としても信仰を集めました。万ヶ洞は、白鷹城の山麓にあり、此の丘つづきに秋葉稲荷、代官所、龍護寺、八王子神社、等々続いています。
寺には遠山氏累代の墓があり、領主の産土の神社には、人丸信仰ゆかりの、柿本人麻呂社や、天満宮社を始め多くの社が併祀され此の山里の伝説が伝えられています。その一つの明智光秀伝説は、砦「千畳敷」で生まれこの山上の井戸水を産湯として使ったと伝え、今も産湯の井戸として残っています。又城と対する中の御山砦の麓には母のお牧の方の慰霊の供養塔が建ち、槙の古樹が生い繁っています。龍護寺山門脇には、光秀の供養塔が苔むして建っているが、その塔は光秀の念力で割れたと伝えられています。寺には光秀の直垂を縫い込んだ、九条衣が寺宝として残されている。領主産土の八王子神社境内には光秀建立とも再建とも言われてその光秀の家紋入りの人麻呂神社が祀られ、社殿脇には光秀手植えの楓が植えられています。
この天神社には光秀幼少の折り、京都嵯峨天竜寺の学僧を招いて学んだ学問所であったと伝えられています。
毎年例祭は3月25日に営まれています。草深い山里にどっかと腰をおろした伝説はいつまでもいつまでも伝えられることでしょう。
(看板資料より)

 

 
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